センター突破 これだけはやっとけ 鳥取の受験生のための塾・予備校 あすなろブログ

鳥取の受験生のための塾・予備校  あすなろ予備校の講師が、高校・大学受験に向けてメッセージを送るブログです。

理髪師のデッサン力

2011-04-17 16:58:00 | 洛中洛外野放図
 千本通から仁和寺街道を西に入った南側に古い散髪屋があった。木造の白いペンキ塗りの建物に入ると、正面の壁にくっつけるように白く塗られた木製のラックが置いてあって、薄手のガラスがはめ込まれた扉の奥に段を分けてバリカンやはさみ、櫛、かみそりなどの道具が整然と並んでいる。テレビもラジオも置かれていない、散髪屋というよりも診療所といった雰囲気の内装で、水色のタイルと白い壁が涼やかな清潔感を出している。東側の壁に大きな鏡が並んでいて、そちらを向いて一つきり置かれている椅子に腰を掛けて髪を切って髭を剃ってもらった客は、西側奥に据えつけられた流しまで移動して髪を洗ってもらう。古風な店主の着る白衣まで古風な感じの古風な店である。店主は寡黙なおじさんで、最初に「どんなふうにしますか」と尋ねたきり、洗髪を促すために「どうぞ」と言うまでひと言も口を利かずに仕事をする。ラジオやテレビの音も、話し声もない状態なので、手動のバリカンのスプリングがきしむキュイキュイという音、バリカンが髪を刈るショリショリという音、はさみを使うシャキシャキという音、切られた髪の毛が前掛けに落ちるぽそっという音、シェイビングフォームをあわ立てる器の中にお湯を入れるときのとぷとぷという音、陶器とブラシが立てるさわさわという音、顔に塗られた小さな泡がはじけるときのぷち、ぴちという音。段階ごとにいろいろな音が聞こえて、髭を剃る前に木製ラックの横に吊るされたなめし皮で剃刀を研ぐ、これがまた古風な中折れ式の一枚刃の剃刀で、その音が妙に冴えて聞こえる。ここのおじさんに髭を剃ってもらうと、自分で剃ったときと比べて髭の伸び具合が半日違うほどしっかりと剃刀を当ててくれる。大変にさっぱりとするが、金属アレルギーを持っているのでその後2日間ほどは痛くてさわることすら出来なかった。なので、静かでゆったりとした時間の流れる大好きな店だったが、そうおいそれと通うことはできない。

 仁和寺街道を千本通まで出て少し北に行った西側に理髪店ができた。理髪師が何人かいて、いちどきに三人の客を捌く。表に出ている料金表を見ると、カット+髭剃り+洗髪で、上のおじさんの店よりも随分と安い。安いので入ってみると、結構なボリュームの歌謡曲が有線で流れていた。北向きに三つ並んだ椅子の両端はふさがっていて、真ん中に座ると瀬戸わんや師匠そっくりの職人に当たった。三人並んで仕事をする職人たちは、それがサービスと心得ているのか店の方針なのかは知らないが、頭をいじりながらのべつ客に話しかけている。自分の当たった職人は、髪を切りながら漢方の話を滔滔(とうとう)と語っている。漢方薬の名前と効能を並べ立てているうちは別段気にもならなかったが、髭を剃りながら頬や首の皮膚をつまんで「硬い」と言い出した。若いのにこんなに硬くなっているのはいかん、と言い、しまいにはこんなに硬いのは不摂生をしているからだとか何とか説教じみたことになって、漢方を飲め、と勧める。なんだかカチンときて、半分そり残して泡をつけたまま帰ろうかと思うほど気分を害した。そこはそれきり。

 仁和寺街道から下宿の前を通る名のない路地を南に下り、突き当たったところで千本通りに向かってクランク状に曲がりくねった道なりに進んでいくと、南側にガラス張りのこぎれいな理髪店がある。東側の壁に鏡が取り付けてあって、鏡の下には折りたたみ式の洗面台ユニットが収まっている。散髪用の椅子が2台並んでいて、その間はたっぷりと取ってある。店そのものはそれほど広くはないが、広々と感じられる。店は静かで、たまに薄くラジオが流れている。表向きに大きく取られた窓からシェード越しにやわらかい陽光が入ってきて、最初のおじさんの店が涼しい感じがしたのに対して、この店は暖かい感じがする。店が新しいわりに年季の入ったおばさんが2人でやっておられて、聞けば西陣京極華やかなりし頃からある古い店だけれど、リフォームして間がないのだという答えだった。カットも髭剃りもやわらかくていねいにしてくれる。特に髭剃りあとの耳かきをしてもらっていると「ふあぁっ」と遠いところに行ってしまいそうになる。一度、髭剃りの最中に気持ちよくなって、ふと気づくと店に入ってから2時間以上経っていたことがあった。驚いているとおばさんは「目ェ覚めたか」と言って「お兄ちゃんがあんーまり気持ちよさそに寝てたもんやから」と笑った。それから「ほな、続きしよか」と言って残りの髭を剃り、耳かきをして髪を洗ってくれた。ここでもゆったりとした時間が流れる。

 大体月イチのペースで髪を切っていたが、なんだかんだでばたばたと忙しく、しばらく散髪に行けないときがあった。いいかげんうっとおしくなって無性に髪を切りたいと思ったのはこれから夏に向かおうかという晴れた暖かいお午ごろで、久しぶりに恋人と部屋にいて、何をするでもなく一緒に畳の上でうつらうつらと、西の窓からお向かいの葉桜を見上げていたときだった。デッサンがちゃんとできる人だから、任せてみても差し支えなかろう。切ってくれというといいよ、と言ったので、新聞紙とゴミ袋とはさみと櫛とを持って、共同炊事場を通り抜けて物干し台に出た。はさみといっても一般の事務用である。物干し台は建物の南側のひさしの上に据えつけられていて三畳分ほどの広さがある。町並みが古く、周りにあるのは日本家屋で裏手が駐車場になっているので、陽を遮るような高い建物はない。一面に陽を浴びてぽかぽかとしている床の上に新聞紙を敷き、その上に胡坐をかいてゴミ袋の底を丸くくりぬいた穴から頭を出す。「集中するからあまり話しかけんといて」と言うので、日光を反射してキラキラとまぶしい周りの屋根瓦を見渡しながらはさみの音を聞いていた。髪が落ちてもあとでまとめられるようにと思って新聞紙を敷いていたが、下に庭があって建物が密集していないから風が吹き抜けてゆく。切った端から飛ばされて行った。日向でビニール袋をかぶっていると少し汗ばむくらいの陽気で、うとうとしかけていると「んー、こんなもんか」と聞こえた。頭の後ろをなでてみるとかなり短い。そのまま炊事場の水道で髪を洗ってさっぱりする。さっぱりしてから食事に出かけた。

 千本通から中立売通を少し東に入ると、老夫婦がやっている太陽軒という中華料理屋があった。古い店で、古い製麺機を使って作る自家製麺がとても美味い。ラーメンを食べて、天気はいいし、時間はあるし、そのまま東向きに知恵光院通まで歩き、南に折れてぶらぶらと散歩をした。Tシャツを替えてあるが、髪の切れ端でちくちくする。途中で晩の食材を買って、午後の残りいっぱいをかけて料理を作ってもらって、その間に銭湯で体中の髪の切れ端を洗い流してきて、ゆっくりと食事をした。終電前に彼女を送って、部屋に戻ってぼんやりとビールを飲んでいると、壁に映る自分の影が目に入った。影法師の頭から長い毛が一本だけにゅーっと伸びている。形はきちんと整っていたけれど、こういうところがやっぱり素人だわな。はさみを持ったが、後ろの方なので鏡で見てもわからない。結局翌日にその一本を切ってもらって、足掛け2日がかりの長い散髪が終わった。

健脚談義

2011-04-16 16:56:23 | 洛中洛外野放図
 阪急京都線は最初の河原町駅を出発して、烏丸、大宮、西院を経て地上に出る。それから西京極を過ぎると桂川を渡ったあたりで大きく南にカーブして桂、洛西口、このあたりでJR東海道本線と国道171号線との三本が並走するような形になって、東向日、西向日、長岡天神の次にある大山崎で天王山を越えて大阪に入ると水無瀬から上牧、その次で高槻市に到着する。

 晴れた朝だった。部屋の電話が鳴る。出てみると古邑さんで「お前今日暇け?」という内容だった。(自称)九州男児の古邑さんは、なぜだか会津さんに「ポチ」と呼ばれている。由来を聞いたが酔っていたので覚えてない。だから未だにわからない。そんな名前で呼ばれても一向に意に介さないようで、意に介すどころか「息子が生まれたら『地を歩む』と書いて『ぽち』と名づける」などとのたまっていた。
「レ点が要(い)りますよ」
「つける!」
その名前が元でいじめられはしないか、それが元でグレてしまうのではないかとまだ見ぬ地歩君の将来を案じたものである。しかし後年我が家に届けられる年賀状の写真に写っているのは娘さんがふたり、安堵に胸をなでおろしている昨今であるが、ともかくその日が平日だったか休日だったか、なんだかの用事があったので最初の問いかけに「いいえ」と答えて切った。相当に早い時間だったので、ちょっとムカついて用もないのに「いいえ」と言ったのかもしれない。要するに今となっては判然としないのだが、ともかく断った。

 夕方、というか晩方に電話が鳴る。出てみるとまた古邑さんだった。相当にご機嫌な様子、かなり飲んでいると見た。普段のペースを考えるとまだ早いような時間だったが、何しろ学生である。日の高いうちから突っ走るのもままあることで、こういう電話は大抵「ここまで来い」だとか「これからお前んちに行っていいか」だとかにつながる。後ろで「あ、なになに?だれ?」と聞き覚えのある声がする。「ちょっと代わるわ」のあとに「まつだぁ?」と聞こえてきたのは会津さんの声、こちらもだいぶテンションが高くなっている。
「呑んでるよぉー」わかってます。
「どこで呑んでると思う?」知りません。
「どこですか?」
「高槻の駅前ー」はぁ?「今から帰るとこー」はぁ。
京都に戻ってきたらどこかに呼び出されるのかと思ったがそうでもないらしい。二人ともただ『今自分たちが高槻にいる』ことと『大変に疲れていて、これから電車に乗って帰る』ことを伝えたいらしい。「じゃねー」と言われて電話を切られても、なぁ。誰がどこで呑もうと知ったことではないし、そんなことをいちいち誰かに報告したこともされたこともない。

 不可解な一夜を明かして翌日Boxに行くと、古邑さんと会津さんがいて、高槻市在住の佐川先輩も揃って、この人たち、心なしか日焼けしてないか?会津さんがなにやらノートに書き付けていて、みると『高槻 Walk!』とある。Walk?? どうやら、そういうことらしい。大学からの阪急京都線の最寄り駅は河原町から数えて四駅目の西院となるが、そこから上記の道のりをてくてくてくてく、電車で行くとわずか20分ほどだが、朝早く出かけて途中某大手酒造メーカーが蒸留工場を建てようかというほど清冽な水の湧く天王山を越え、午後遅くに到着したのだそうだ。そりゃぁ疲れるだろう。前日早朝の電話で「暇です」と答えていたら、一緒に行くことになったのかしらん。参加者を聞くとあまり面識のない、すでに引退した先輩(高槻市在住)が言いだしっぺで、その先輩と同期の、こちらもあまり面識のない、もう一人の先輩(高槻市在住)と上記の三人。そのメンバーだと誘われることもなかったと思われるが、とにもかくにもよう言わなんだこっちゃ。

 百先生の言を待つまでもなく、どこかへ出かけたら必ず帰らなければならず、帰るというのは立派な用事である。歩いて帰るために朝早く京都までやって来るのもどうかと思うが、参加者五名のうち高槻市に住まう三人はまぁ、よしだ。わからないのが京都から参加の会津・古邑組で、酒を呑んで電車に乗るためだけに京都-高槻間の長大な距離を踏破したことになる。無駄なことも無駄なことをする人も大好きだが、今回のこれはちょっと仲間に入りたくない気がする。石地さんや綿部さん等、その場に居合わせた人たちとあきれ返っているのを尻目に、当の三人は「なんだか偉大なことを成し遂げた」感を漂わせながら盛り上がっていた。

 栄地と呑みながら高槻 Walk の二人に触れ、「あそこまで行くと立派だわ」という話になった。高槻市の自宅から通う栄地は「んー、歩けんことも、ないやろねぇ」と言う。その話のどこがどう琴線に触れたのかはわからないが、能面のように変化を見せない表情筋の下に熱く滾(たぎ)るものを隠し持っているこの男ならやりかねない。まさかと思いながら杯を重ねていると「ぼちぼち、帰るわ」と言い出した。すでに午前2時に近い。やりかねないとは思ったが、よもやこんな真夜中に決行しようとは思わなかった。当然引き止めたが、一度ハートに火をつけられたらもうこちらの言うことを聞き分けるような奴ではない。「アホはここにも・・・」と思いながら、勇躍仁和寺街道を西へ向かって京の闇に溶け込んでゆく後姿を見送った。

 翌日顔を合わせると、何事もなかったようにしれっとした顔をしている。聞けば、天王山を越えたのは夜が白々と明けかかろうとしているころで、夜中の山越えはさすがに「ちょっと恐かった」んだそうだ。この男のことだから街灯のあるあかるい道は避けて歩いたであろうことは想像に難くない。水無瀬の手前あたりで始発電車とすれ違うか追い越されるかして、すでに電車は動いていたが「そのまま歩ききった」のだという。家に着いたら歯を磨いて顔を洗って着替えて出かけて、1限目の授業からしっかり出ていたというのだから、もうあきれるのを通り越して感動的ですらあり、「こいつが一番立派」だと思った。その晩、立派な友の何の役にも立たない蛮勇をたたえて酒を酌み交わしたが、さすがに電車で帰って行った。

 こういう話を思い出すにつけ、良き先輩、良き友に恵まれたものであると、わが身の僥倖を嬉しく思うと同時に「類は友を呼ぶ」という諺を疑わしくも思うのであった。

幸福の基準

2011-04-15 16:54:19 | 洛中洛外野放図
「あのう」
 壁にもたれて居眠りをしかけていたら、知らない男に声をかけられた。校舎の正面入り口を入った左側は談話室のようになっていて、ソファやらテーブルやらが置いてある。そこで待ち合わせをしていた。人が多いので壁にもたれてぼんやりと人の行き来を眺めているうちに「ふあっ」となってしまったようで、そこになんだかおずおずした感じの男子学生が声をかけてきたのである。目を開けると、目の前の男は「あなたの幸福を祈らせてくれ」とかなんとか、そんなような意味合いのことを言いだした。初対面で何を言い出すんやこの男は。自分なりの基準はちゃんと持っているから実際幸福なら間に合っていたが、まぁ、祈りたいというのなら勝手にするがよろしかろう。「どうすんの」とたずねると目をつむれと言う。つむりかけてたんや、それを自分が開けさせといてからに、またつむれてかい。とは思ったが、人寄り場所で声を荒げるのもなんなので「こうかいな」とつむってやった。そのまま黙ーっているので目を開けると、相手も目をつむって口の中でモニョモニョ言っている。そおっと移動して、少し離れたところで眺めているうちに待ち合わせていた樽緒が来た。この男は「幸福とは食うものの上にある」という信条に殉じて日々を送っているような男で、その食いっぷりたるや惚れ惚れするものがある。大学の南門を出たところに『ひとみ』という喫茶店があり、ここのオムライスの大きさが尋常ではない。大盛で頼もうものなら30cmのフライパンいっぱいの代物が出てくる。それを、食いやがった。そのときは勢いもすさまじく、見ている目の前で『食ぁべよった平らげよった、いただきよった食いよった』(桂米朝師)、最後の一口を飲み込んで「どえぇーい」と言いながら皿の上にスプーンを投げ出すと、周りの席からも喝采が起こった。それから二度と行かなかったようだが、ともかくこの男も明確な基準にもとづいて幸福には不自由してないはずである。
「どないしてん」
「あの人な、なんかものっスゴ真剣に祈ったはんねん」
「何を?」
「俺の幸福」
「はぁ?ほんで、誰やねん」
「知らん」
二人で眺めていると、そのうち人だかりがし始めた。その男を中心にして人の輪ができかけている。お祈りが終わったかして目を開けると前にいるはずの人間が消えていて、かなりの人数に注目されている。耳まで真っ赤にして急ぎ足で立ち去っていく後姿を見送って散会となった。
「なんやったんや、あれ」
「俺が知るかい」
暖かい布団の中で布団の襟元を凍りつかせることもなくゆっくりと朝寝をしていられる、これに勝る幸福はないのであって、時候の好かったその頃は見ず知らずのお人に祈っていただくまでもなく、毎日至福の朝を迎え、この幸せが永久(とこしえ)に続かんことをと我が世の春を謳歌していた。実際世間も春だった。

 そう、春なんである。京都の町がノーんびりと、文字通り「長く閑(しず)かに」白い霞の下に沈む中、大学内では新歓ムードでそこいら中が喧(かまびす)しい。で、声をかけてくる奴がいる。
「きみ、新入生?もうサークルとか、決めた?」
ききき、キミてな。妙にカッチイン!とくる口調で話しかけられた。白いTシャツの上に襟元と袖口に紺とオレンジに近い赤でラインの入った白いVネックのセーターを着て、うすい水色のジーンズに白い K Swiss のスニーカーと、80年代末から90年代初頭にかけての絵に描いたような「爽やか」が、軽くパーマのかかった前髪の下でにやけて立っている。上浦も似たような格好をするけれど、にやけてないし馬ヅラなのでそれほど気になったことはない。前夜も酒に対する志を同じくする面々とすごし、新年度の学生証用に写真を撮るためとりあえずひげを剃ってはいるものの、酔いが抜けきってなさそうな風体はどう見たって新入生ではなかろう。声をかけられたこっちの方がびっくりして、相手の頭のてっぺんから足もとまで視線を往復させてから顔を見据えて「ちゃうで」と言うのが精一杯だった。
「ああっすいませぇん」
小さな声で一言残して校舎の向こう側へ走り去って行った。その速いこと、そんなに慌てることもなかろうに。

 学内のいたるところでいろんな団体が新入生を勧誘しようと躍起になっているこの時期は大学周辺の居酒屋も、繁華街の居酒屋もいわゆる「新歓コンパ」でやかましくなる。座敷ごとに一気コールが聞かれ、大声で怒鳴るもの、トイレの前の廊下で二つ折れになって通り道をふさいでいる者、表の歩道で寝転がってゴロンゴロンのたうち回っている者、いろんな大学の校歌や応援歌もがなりたてられる中、様ざまな酔態が展開される。こんなこれっぽっちの潤いも美しさもない、見苦しいだけの情景(もの)で春を感じるというのも悲しい限りであるけれど、それよりもこんな姿を見たら親御さんはさぞや悲しまれることであろう。入試のときどれだけの偏差値を取っていたのか知らないが、人としての偏差値は限りなく低い。とはいうものの他人ごとでなはないので、酒を飲めば酔っ払うし、酔っ払ってしまえばみな同じである。むしろ「人のフリ見てうらやましい」くらいなもので、要は酔ったモン勝ちな雰囲気が支配的になる。そんな中で諸先輩から一気飲みを強要されることなどなかったし、後輩にもさせたことがない。かといって、黙って静かに飲んでいるかというと決してそんなことでもなかった。何しろ先輩、同期を問わず周りにいるのが「酒を呑む」ことを第一義と考える人たちばかりなので、一気飲みについては「そんな酒があるなら自分で呑むわ」というという不文律が成立していたのである。各自の呑めるように酒を楽しんで、飲めない者はそれなりに過ごしていればよろしい。無理強いはしない、飲みたいやつは、呑め。これのみをモットーに酒席は進む。で、飲んでいる連中は酒のもたらすその場限りの多幸感と万能感に高揚していく。そんな周りの呑み方を見て覚えるのか、見て覚えてどうなるものか、それは知れないが、夏を過ぎるころになると酒が苦手とか弱いとか言っていた連中も、弱いなりにそこそこ呑めるようになって、翌日の軽い後悔を孕(はら)んだ小福を分かち合うことができるようになる。

 かくしてバブルの恩恵に浴することもなく金を持たない学生たちは、安上がりな基準で幸福を満たしていたのである。