センター突破 これだけはやっとけ 鳥取の受験生のための塾・予備校 あすなろブログ

鳥取の受験生のための塾・予備校  あすなろ予備校の講師が、高校・大学受験に向けてメッセージを送るブログです。

結社するぞ

2011-06-30 19:18:12 | 洛中洛外野放図
 Boxでたばこを吸っていた。
何人か先輩が一緒だった。
 それはヤブカラボーだった。

「秘密結社をつくるからな、松田も入れたるわ」
「秘密結社?ですか?」
「おう、秘密結社『マングースの白い牙』や。ええやろ」
「『マングース』って」
「おう、『タスマニアンデビルの黄色い門歯』と迷ってんけどな、こっちの方がカッコええやろ」

いやいやマングースだろうがタスマニアンデビルだろうが、なんならオコジョだってかまわないんだが、でも確かに『黄色い門歯』よりも『白い牙』のほうが ... いかん、ちょっとノせられとる。

「俺だけ?」
「いや、宝饒も入っとる」
「お、チョイ待てや松須、おれそんなんいっこも聞いてへんやんけお前」
「やかましい!ワシが結社つくるゆうたらお前も入るに決まってるやんけ」
「決まってへんわ、そんなもん」そういいながら宝饒さんは引き込まれそうな素敵な笑顔である。

「で、その結社で何するんですか?」
「まずはお前のトコで作戦会議や」
「はぁ?会議って?」
「酒呑むに決まっとるやろ、わからんかぁ?」

いずれそんなことだろうと踏んではいたが、そんなもん、結社する必要ないじゃないですか、いつものこっちゃのに。

かくして秘密結社『マングースの白い牙』の活動は開始されたのである。秘密裡に、しかしいつもどおりに堂々と。

 メンバーは流動的で、結社の長(何て言うんだ?『社長』か?)松須さんのいるところどこでも作戦会議となる。つまりその場に居合わせた者は自分が秘密結社『マングースの白い牙』の作戦会議に出席していることなど知る由もない、ということは、メンバー本人にも自身が結社の一員であることは秘密になっているのである。これほどの『秘密』結社がかつて存在し得たであろうか。

「あー、ナミカワさん、ナミカワさん」
とある作戦会議での一幕である。
「あー、ナミカワさん、ナミカワさん」
「わたし、皆川ですっ!」

皆川女史は松田と同期で、周りから「どうしてあんな真面目な子がこんなとこに居んだろうね」と身も蓋もない言い方をされたことのある、朴訥な中に芯の強いというか、「マーそんな硬いこといわんと」と一声かけたくなるような、ちょっと昔気質な一面もある女傑である。なぜ女傑であるかというに、元来石地さん言うところの「ガラスのハート」である松須さんの、照れ隠しの意味合いもある粗暴な言動を矯正すべく敢然と挑みかかっていったからである。松須さんの卒業まで数度にわたって繰り広げられた松須vs. 皆川バトルは、皆川女史の入学間もないこのあたりに端を発するものと思われる。

「おおっ、すまん。だけどお前ナミカワいう感じやねん、今日からナミカワにせぇ!」

無茶である。

 以前にも触れたとおり、若い頃なら誰もが陥りがちな「漢(おとこ)」幻想を追い求めているようなところのある松須さんは、ことあるごとに「男っちゅうのはやな、・・・」「女っちゅうのはやな、・・・」と『懇々と』理想の男性像、女性像を説いていた。そんな折も折。

「松須さん、女の子に幻想抱きすぎですよ」

ああっ、皆川!言うてはならんことを!

「そんなん言うてたら女の子誰も相手にせんようになりますよ、そうなったら結婚でけへんし、子供も作れませんやん、そんななっても知りませんからね」

そういう大局的な話がどこから出てきたものか、なんか話があらぬ方向に向かい始めているようだが、傍で聞いている分には面白い。半笑いでコトの成り行きを見守るのみである。

「いらんわいっ!ワシは根性で細胞分裂する!」

こう言い放つ『気を使う繊細な豪傑で愛すべき人』(by 会津さん)を相手に、女傑は飽くなき闘いを挑み続けるのであった。

CM放映&日本海テレビ「スパイス」に出演します!

2011-06-26 18:42:58 | あすなろ予備校
遂に完成!

何がって?
7月に流すCMがデスヨ!!

東○ハイスクールに負けないアツイCMですので、ぜひ一度見てやってください。
7月3日(日)~7月9日(土)の日程で、日本海テレビにて放映します!

同時に、7月9日(土)9:25からの日本海テレビの情報番組のスパイスにも出演してきます!


ぜひご覧ください!

関関同立 入試説明会のご案内

2011-06-24 17:34:11 | 大学入試
ご無沙汰しております、谷川でございます。


最近はブログもすっかり松田先生の「野放図」にお任せして、さぼっておりました。
(野放図、面白いよね!!)

夏前、いよいよ受験生の勉強もヒートアップ、ということでブログ戦士として復活いたします!

この夏もいろいろ面白いことをやろうと思っておりますので、そちらのほうも随時告知していきますよ



さてさて

タイトルにもあるとおり今年も私立大学入試説明会の開催が決定しましたので、お知らせいたします。

夏は関西の私大がアツい!
ということで、各大学の入試担当の方にお越しいただいて、各大学の特色や最新の入試動向、入試突破のための傾向と対策を存分にお話しいただきます。
毎年ここだけでしか聞けないマル秘情報満載!
過去のお話では入試問題の実際の配点や、「コレだけは完成させておけ!」という情報をお話していただきました。

日程は以下の通りになります。

_____________________________

7月2日(土) 13:30~15:00 関西大学
7月2日(土) 16:00~17:30 同志社大学
7月9日(土) 11:00~12:30 関西学院大学
7月9日(土) 13:30~15:00 立命館大学

_____________________________

各大学とも1時間の全体説明・30分程度の個別相談会の実施を予定していますので、日頃の疑問を思い切りぶつけてスッキリさせてください。


詳しくは
http://www.asunaro-yobiko.com/download/61.html
をご覧ください!

もちろん参加無料です。
校外生で参加したい方は、
0857-22-6896まで、
あるいは
お問い合わせフォームに氏名・連絡先・参加したい説明会の大学名など、必要事項をお書きのうえ、送信してください。
皆さんの参加をお待ちしています!!


説明会が終わった後はいよいよ受験の天王山、夏期講座もスタートします。
夏をうまく乗り切れるよう、今のうちに情報収集してください!



がんばれ、受験生!!

わらしべポーチ

2011-06-22 07:15:24 | 洛中洛外野放図
 当時千本丸太町と北野白梅町にも新京極に本店を構えて京都を中心に滋賀、奈良にまで展開するCDショップの支店があって、下宿からの距離はどちらとも似たようなものだったので平日大学の行き帰りには白梅町、休日には千丸、という感じでよく覘(のぞ)いていた。オリジナルのものかどうかはわからないが、一時期そこで買い物をすると品物を往時のロックやジャズのLPジャケットをモノクロでデザイン処理したプリントを施してあるジッパー付きのポーチに入れてくれた。

「お腹が減ったら納豆と干しぶどう以外は何でもおいしいです」

 好物を尋ねられたときの宝饒さんの玉言である。宝饒さんのイメージはロックとプロレスの人、ちょっと慌てたような喋り方をする、引き込まれるような素敵な笑顔の人。あるとき佐川さんから宝饒さんの下宿で呑む、その際にいま一番お気に入りのCDを2枚持参すること、というお達しが来た。各自が持ち寄った音楽を鑑賞し、それについて評しあうことでお互いの音楽の守備範囲を広げようと。ただ何のことはない「こいつ何を持ってきやがるんや」という興味本位の探りもみえみえなその企画に、確かジェフ・ベックの何年か振りに出したばかりのインストゥルメンタルアルバムとマリリン・マーティンのファーストを持って行ったように思う。あとの参加者は判然(はっきり)としない。栄地もいたか。さて始めるか、となって持参のCDを宝饒さんに渡す。
「おっ、ストーンズやんけ」
宝饒さんが食いついたのは持って行ったCDではなく、それを入れて行ったポーチにプリントされた “december’s children” のジャケットデザインだった。

 呑み始めてしまうともう『鑑賞する』も『評する』もない。大きな声で喋るわ笑うわ、各自選りすぐり(のはず)のとっておき(たぶん)が単なるBGMに成り果ててしまっている。その間も宝饒さんは思い出したようにポーチを手に取っては「ええなぁ」と眺め入っている。とうとうこらえきれなくなったらしく「あー、ええなぁこれ、松田、これおれにくれへんけ」と思いの丈をぶつけてこられた。こちらとしては何の異存もない。「いいですよ、それ置いていきますからどうぞ」「ほんまけ?ほんまにええんけ?いやぁでもなんか悪いやんけ、ほんまけ?」引き込まれるような笑顔で早口に畳み掛けるそのリアクションにお人柄がにじみ出ている。この人はとことんいい人だ。だけどここまで言われるとどことなくこそばゆい。
「宝饒、よかったやんけ」「おお、嬉しいわぁ、なんか礼せんとあかんなぁ」「ほんまやで」
佐川さんも一緒になってなんだか妙な感動モードに入っている。いえいいんです、CD買ったらもらえるんですそれ、そんな大袈裟なモンとはちがいますよー!
かえって困るちゅうんだこれ...で、結局「ちょっと多めに注いでもらう」ことでケリがついた。

 後日、大手レコード会社に就職した宝饒さんから電話があった。「今度お前の好きそうなCD出すことになってな、余分のデモ送ったるわ」とのこと、卒業後まで気にかけて思い出してくれるのを嬉しく思った。住所を伝えて何が来るかと待っていると、宝饒さん名義の封書の中に入っていたカセット・テープのラベルには『浪速のモーツァルト』と称される作曲家の名前が大書してある。思わず小躍りしてしまった。

 テープの中身は関西圏で生まれ育ったテレビっ子にとっては体に染み付いているような、関西圏以外のテレビっ子にとっても聞き覚えのあるような番組テーマ曲やCMソングが目白押しで、聞かせた奴らのほとんどが懐かしがり、欲しがった。聞かせたこっちは『どうでぇ』てなモンである。宝饒さん、ありがとう。とはいえCD2枚組み作品集のすべてが入っているわけではない。今となってはまったくもってその必要もなかったように思われるが、先のCDショップチェーン白梅町店で「取り置き」をお願いするという暴挙に出た。
「モーツァルトですか?」
「『浪速の』モーツァルトです」ことのわからないバイト店員にヤキモキしたものである。

 CD入手後しばらくの間は貸せのよこせのちょっとした争奪戦状態だったがやがてそれも沈静化し、とはいえ松田の下宿で呑むときは決まって中の誰かが聴きたがり、最低1回はかかるようになっていた。みんな「またかいな」という態度を取っていてもそれぞれの『ツボ』に差し掛かると必ず歌でもメロディーでも小声で口ずさんでいる。刷り込みっておそろしい。

 時は戻って “december’s children” のポーチが宝饒さんの手に渡った頃のこと。手元にはこれとビル・エヴァンス・トリオの “Sunday at the Village Vanguard” のものが複数枚ずつ、他にもいろいろとデザインがあったのに、どういうわけかどの店で買い物をしてもこの2種類にしか入れてもらえない。まぁ自分で選ぶシステムではなかったし、CDサイズで『容れ物』としての汎用性に乏しいものなので「CDを貸し借りするときにちょっと便利」な代物でしかなかったのだけれど、もう一人これに食いついてくるのがいた。ビル・エヴァンスのものを見た栄地が「いいな」と言ったのである。イメージ上彼は自分を含めた知人の中で『物欲』から一番遠く離れた所にいたので、ちょっと意外な感じがした。
「ええよ、じゃぁ、やるわそれ」
「え?ええんか?お前の分あるんかいな」
ちゃんとある。何枚かある。なくても、スマン、俺にはそれほどの思い入れはない。軽く押し戴くようにして「感謝」と言う栄地の姿は本当に嬉しそうだった。

 自分にとっては『買ったCDの付きモン』に過ぎないようなもので宝饒さんと栄地という「なんだか惹かれる」男たちに大層な礼を述べられ、ものすごく得したような、なんだかちょっと後ろめたいような気がした。

夜を歩く

2011-06-21 14:14:33 | 洛中洛外野放図
 むき出しになった裸電球の周りを飛び回る小さな蛾が時折電球にぶつかって、その小さな音がキンキンと高く響く。夏になる前の少し暑いほどの夜のことで東西両側の窓は開け放してあるけれど、風がないのでトロっとした空気が動かない。電燈の黄色味を帯びた灯りに照らされた部屋の白い壁がクリーム色にぼうっと光を発しているようで、自分のいる部屋の中が明るい分、真ん中から左右に張りあけた窓のガラス障子の間からすだれ越しに見る外の闇は余計にとろりと濃密な感じがする。間に一畳の板の間を挟んだ向こうにある西向の三畳間は照明を消してあって、真っ暗な奥行きがどこまでも続いてそっちの方から窓の外と同じ黒がじわじわと浸み出してくるように思われる。

 日の暮れかかる頃から本を読み出して、いつの間にやら夜半を過ぎている。その間何も口にしていない。冷蔵庫は空だし、何の買い置きもないのでとりあえず出かけてみることにした。部屋の電燈の下にいると気がつかなかったが、外に出てみると月が朧に出ていて周りがほんのりと蒼味を帯びている。屋根瓦が青白く月の光を反射する色が好きで、しばらくは行き先を定めずに月の光を感じられるよう、ぬめぬめと濡れたような光を反射する屋根瓦を眺めながら街灯の少ない細い道を歩いた。夜の空気は夏の気配を孕んで肌にまとわりつくようにねっとりと感じられる。

 北野の杜の辺りでは木立のシルエットで夜の色が深い。歩いていると動きのないむしむしと暑い空気の中を掻き分けているような感じがするけれど、上のほうでは風がある。揺れる梢がざわざわと音をたてて一塊になって動くさまを見ていると夜空よりも深い夜の黒が少しずつ膨れ上がっていくような、そのまま下へ降りてきて取り込まれてしまうような感じがする。繁華なあたりの終夜営業の店に行く気にはならなかったが、少し呑みたい気分ではあった。何が潜んでいるといわれても信じてしまいそうな黒い梢を見上げながら天満宮の東側の御前通を北へと向かう。樽緒の部屋を覗いて、起きていれば上り込むか連れ出すか、時間が時間なだけに電話をかけて起こしてしまうのも悪いし、それよりも起こしてしまうと呑まなければいけなくなる。奴が寝ていたらそれまでのこと、どうなるかは行ってみないとわからないという状態にしてアパートの裏手に回った。樽緒の部屋は真っ暗で、その上の少し知っている奴の部屋も真っ暗で、それならば仕方がない、月を見ながらぶらぶらと帰ろう。

 腹が減っていたし、ちょっとだけ呑みたいような気分だった。かといって牛丼だとかコンビニ弁当というのも気が進まない。お酒中心の店に行くほど呑みたいとも思わない。天満宮と向かい合う警察署の裏手にあるラーメン屋がまだ暖簾を出していたことを思い出して、まだやっているかと今来た道を逆に辿った。

 その店の面している一条通は『百鬼夜行』の通り道にあたっていたそうだ。京都の夜の心象は、他のどこで過ごしたことのある夜よりも暗い。もちろん、明るいのである。いろんな灯りに照らされて明るいのだけれど、その灯りから外れたところの闇は透明感のない深い黒で、明るいところから見ていると何やら得体の知れない気配のようなものがわだかまっているような感じがする。具体的に何かが居るというのではなくてあくまでも気配のようなもの、「何かがいる」と言われれば「あぁ、そういうこともあるかもなぁ」と思えそうな、『何がいてもおかしくないかも』という程度のものでしかないけれど、これは京都という土地についての知識をもとに他所から来た一時的な居住者が勝手にイメージするもので、そこに根付く生活者の持つ感覚ではないのかもしれない。とはいえ、元元『百鬼夜行』とはそんなものに形を与えたもんじゃないだろうか、とも思う。その頃の闇は今となっては想像もつかないほど深く濃いものだったろう。その中にある目には見えない密やかな感覚に「付喪神(つくもがみ)」という物語を与え、日用雑器類をもとにキャラクター化していったヒトの想像力を凄いとも羨ましいとも思う。ただ一度キャラクター化されてしまうと、それが先行してしまうと元元の「『何か』の感じ」とは乖離したものになってしまって「キャラクターを追いかける」ことにしかならない。その夜の徘徊は多分、そんな「キャラ化以前」の感覚を弄んでいたかったんだと思われる。

 とはいえその時にそんな「七面倒臭ェ」ことを考えていたわけではない。ともかく腹が減っている。目指すラーメン屋は閉店ギリギリだったけれど、幸いまだ入れてくれた。他に客はいない。この店には『白梅麺』と『紅梅麺』というメニューがあって、それぞれのトッピングはかしわと豚肉、それに梅肉を添えてある。白梅麺を注文したように思う。ビールどうするか、などと思いながらラーメンをすすっていると、新聞を読んでいた店主がやおら話しかけてきた。

「京都は全国の都市の中で一番緑が少ないんやて」
「???」

それまで何度かお邪魔したことがあって、客が一人だけの時もあったけれども話しかけられたのは初めてのこと、しかもその話題が『京都市の緑地面積』というのでなんとなく面食らった。それでも御所とかそこの天神さんとか、緑は多いんじゃないですか、と訊くと「一箇所に集まっているから多いように見えるけど、全体との面積比でいくと一番少ない」ことを教えてくれて、東京とかの方が少ないように思うんやけど、不思議やろ、と続いた。どうやら新聞かニュースかでそのことを知って、なんだか釈然としなかったらしい。望みもしない『京都市トリビア』と白梅麺で何となく一杯になって店を出た。腹はくちくなったが熱いラーメンを食べて汗になり、余計に夜気がねっとりとまとわりつく感じがする。上七軒まで戻ってコンビニでビールを買い、部屋に帰って飲みながら本の続きを読んでいるうちにだんだんほの明るくなってきて、すだれの向こうのとろりとした闇も薄らいできた。夜明け前には少し涼しくも感じられたけれど、それでも日が昇ってしまうとまた蒸し暑くなるんだろう。

*参考:大将軍商店街 妖怪ストリート http://www.kyotohyakki.com/web_0317/top.html
現在この商店街は「妖怪」をテーマにしていろいろと企画展開をしている。

番外編 20回記念近況版

2011-06-08 08:29:18 | 洛中洛外野放図
「もしもーし」
「あい」
「今どこ?」
「京都タワーを正面から眺めてます」
「私も見てるけど、松田いるぅ?電話してそうな人見えないよ」
「頭にタオル巻いてんのが俺」
「お、見えた!」
およそ18年ぶりの会津さんはまったく印象が変わらないが、歳相応な感じになって、なんだかかえって格好良い。上手な年齢の重ね方をしたんだろう。

発端はこうだ。桜の開花もうやむやだった今年の中途半端な春先、会津さんとのメールが京都のお気に入り桜スポットの話題になり、やがて『行きたいねぇ』という話になった。同時期に石地さんと京都で呑みませんかというやり取りをしていて日程を詰めかけているところだったので、じゃぁ一緒でいいじゃねぇか、と気づいて予定を伝えた。会津さんの参加が決まってからふたりの『行きたいところリスト』の作成が始まり、『りゅうせん17:30』の約束までにいろいろ回れるよう、早めに京都入りすることにした。この時点ではふたりともいろんなところに行く気満々である。

 まずは腹ごしらえをと、とりあえず四条烏丸に出て界隈をぶらついた。錦市場を抜けて新京極、寺町京極と繁華街を歩き回って「あー、こんななっちゃったんだ」「変わったなー」「変わらんなー」と、あてもなくただ喋るのに忙しい。ふたりともはじめて見る御池通の地下街を通り抜けて河原町通に出て、創業80年という老舗の広東料理店の前を通りかかった。店名のカタカナ文字を中国服のおっさんの横顔に見立ててあるとてもよくできたロゴに惹かれて店内へ。「生中ふたつ」そこからかい。結局食べるものもそこそこにジョッキで二杯ずつ、『お昼を食べて六曜社でゆっくりとコーヒーでも』というはずが、ビールでお腹がたぷついてそれどころではない。イイ感じで喋っているとホテルにチェックインできる時間になったので、ひとまず荷物を置いて身軽になることにした。

 一括で予約したので隣り合った部屋の取れたホテルは京都御苑の西側、烏丸通に面している。季節はずれの台風のおかげで雨にけむる御所の緑は、濡れて黒くなっている幹とのコントラストが強まることでより勢いを増して見える。それにしても、雨だ。下鴨神社、糺ノ森に行きたかったのだけれど、この雨ン中森を歩くのもなぁ。なのでふたりとも行ったことのない晴明神社に行ってみることにした。ホテルの北側にある護王神社の前を通って、下立売通を西向きに折れて堀川通へ。ここは名前のとおり小さな川が流れていて、道路からその川っぺりに降りて、川沿いを歩く道が整備されている。「へぇ、こんななってんだ」「ここはバスでしか通りませんでしたからねぇ」「そうだよ、ここ『バスの道』だもんね」こと京都に関して、このふたりは自己中な世界観しか持ち合わせていない。堀川通を北上すると晴明神社に辿りつく。着いたところでどうということはない。「ご利益求めるところじゃないよね」とか言いながら形だけ拍手を打って、境内と隣にあるグッズショップを素見(ひやか)しておしまい。式神送り込まれても知らんぞ。

晴明神社の北を通る元誓願寺通で西に折れ、続く家並を観察しつつ千本通に抜ける。千本通を南下して行くと粋棟さんも御用達だった乱雑な新刊書店は健在で、居酒屋『神馬』を尻目に殺して中立売通を渡り、「皮膚が硬い」とイチャモンをつけられた理髪店を通りすぎて仁和寺街道を右に折れると寡黙なおじさんの理髪店も、体中に花札を散らしたおじいさんに驚いた銭湯も新しい建物に変わっていたが、見慣れた看板もちらほら見える。「あ、あそこ、千本日活」「おぉー」という会話をはさんで七本松通の一筋手前を左に折れて坂を下る。老夫婦の営む旅館と桜の木はなくなっていたけれど、西陣京極全盛時に置屋として建てられた築数十年の木造家屋はそのまま建っている。
「あー、ここだぁ。松田の部屋ってどこだっけ」
高いレンガ塀越しに見上げる北側の部屋の窓にはサッシが嵌(は)められている。変わっているのはそこのサッシとエアコンの室外機が置いてあることのみ。よかった、これでもう真冬の死ぬほど寒い外気も、真夏のゲル状のまとわりつく空気も怖くない。「あのちっちゃいおばあちゃん、まだ住んでるかな」「いやぁ、さすがにもうご存命じゃないでしょう」「そうだよねぇ。入ってもいいんだろうか」「まずいんじゃないですか」などと言いながら、二人とも結構嬉しくなっている。

 坂を上って七本松通に出て右折、中立売通で左に曲がって道なりに進むと今出川通に向かって北向きにカーブする。カーブを曲がりきったあたりで病院の看板が見えてくる。

「あそこですよ、俺が顔面縫ってもらったとこ」「なんか覚えがあるよ、私とか石地君も顔が腫れてる松田の前でお酒呑んだよね」「うん」「なんか溝に突っ込んだとか聞いたような気がすんだけど」「さんっざんアホ呼ばわりされました」「結局原因わかんないんでしょ?」「わからないんです」

言っているうちに北野天満宮の鳥居をくぐる。境内には修学旅行の団体が何組か、せっかくの京都なのに、こんな台風の雨降りでかわいそうだね。参道を外れて御土居に登る。石畳ではなく土になっているので、足もとが悪いことこの上ない。革靴の会津さんには気の毒なようだったが、そのまま紙屋川を渡って細い歩道へと抜ける。「ここですよ、静かでいいでしょ」「うん、いいね。いいとこだね、でも雨がさぁ。天気のいいときにゆっくり歩きたいよね」そう、そぼ降る雨の中、足をびしょ濡れにして歩き回る40代がふたり、ここにいる。

 そのまま懐かしのお馴染みの北野白梅町を北上して平野神社の手前を西へ、上立売通を進んでいくと大学の東門に着く。とうとう『碁盤の目』の西側半分の距離を歩ききってしまった。門のところに誘導員のおじさんがいて、部外者は入れてもらえないのかと思ったが、広告のキー・ヴィジュアルに使われる時計台のある建物の裏手は墓地になっていて、キャンパス内はその参道としても使われている。そんなところが部外者を締め出すはずもないか。

 グランドがない!知らない建物が犇き合ってる!何だこのホテルみてぇな建物は!
「こんなとこ入学したら迷子になっちゃうね」
というくらいにデザインに統一感のない新しい建物がゴテゴテと立て込んで、なんだか狭っ苦しい。屋上のベンチで京都の町を見下ろした建物は研究棟になったらしく、セキュリティーカードがなければ屋上はおろか校舎に入ることすらできない。しばらく来ない間に大変な様変わりをしている。
キャンパス内の掲示物や表示などに大学のロゴが入っているが、漢字を使った本来の大学名ではなく赤地に白抜きでデザインされた英字ロゴになっている。
「このクラッカーの商品名みたいな愛称、止めるヤツいなかったんですかね」
「ねぇ。いつの間にか勝手に決めちゃってさぁ、卒業生にはひとっ言の相談もなしだよ」
「まったくです。俺んとこにも何もなかった」いやいや、相談されてもどうにもなるまい。

「あーっ!」「おーっ!」「でーっ!」

三人が同時に声を上げた。ちなみに最初のが会津さん、最後のは松田である。向こうから歩いてくる妙に恰幅のいい、白髪交じりの、赤いラガーシャツの男性は会津さんと同期の仁多苑さんだった。

 実は今回松田の方から石地さんに京都で飲みませんかと声をかけたのだが、その後石地さんが方々に連絡を取ってくださり、大阪在住の仁多苑さんと佐宗さんも参加することになっていた。店の手配をしたのも石地さんで、言いだしっぺの後輩が先輩に幹事をさせてしまっていたのである。参加者のことはちょっとしたサプライズにしようと思って会津さんには内緒にしていたが、こんなところで出くわすとは…
「おおなんや、大学に似合わんオバハンとオッサンが歩いとんなー思ったら、会津と松田やんけ」
「オバハン言うな!」そう、『もっとオッサン』に言われたくはない。
「らくちゃん、久しぶりー!」
なんでも学生時代よくキャメルのスタジャンを着ていたので『らくだ』なんだそうだ。

三人連れ立って南門を出て、途中の店にいちいち学生当時のコメントをつけながら、会場となる『りゅうせん』のすぐ裏に当たる嵐電龍安寺駅に向かって坂を下った。龍安寺駅に着いたのが17時を少しだけ回った頃、約束の時間には随分と早いが仕方がない。石地さんに到着メールを打って店の前の路地で待った。しばらくだべっていると、向こうの路地を曲がって来た人の歩き方に見覚えがある。歩き方どころか着ている服装のイメージも髪型も、当時と何ら変わるところのない石地さんだった。
「なーんでお前がここにおるんやて」
開口一番それか。
会津さん以外の参加者は、前日石地さんから開始時刻・会場・会場の位置・参加者を詳細に記したメールをもらっていた。行き届いた人だと思っていたが、どうやら違っていたようだ。学生時代から遅刻の多かった仁多苑さんに「こんだけ送っとっても遅れて来るんかお前は」というひと言が言いたかったらしい。別の意味で周到な人だ。

雨は降るし、店の前で立ち話もナンだ、というので、少し早いけれども店に入れてもらった。店内も、おばちゃんも変わらない。ご無沙汰してますと挨拶をすると「まーまー、あららら」と、どうやら覚えてくれていたらしい。そりゃぁ、夜中に顔面を割って血だらけになって入ってきた奴はなかなか忘れられないだろう。テーブルに着くとき石地さんが言った。
「途中で見たら林寮なくなっとったわ」
「林寮って?」
「松須の住んどったアパートや」
「なんやお前、わざわざ気になって見て来たんかい?」
「いや線路沿いだったやないか、途中見えるちゅうの」
たぶん、わざわざ見に行ってる。早いけど始めようかと話していると、石地さんの電話が鳴った。
「佐宗10分ほど遅れるって」「なに佐宗も来んの?」「うん、あと宝饒もギリギリまで調整したけどあかんかったて」「宝饒くんって、今どこ住んでんの?」「東京」「なに東京から呼んだのぉ?」
そうなのである。調整がついたらわざわざ東京から来てもらうことになっていた。ふとした思い付きがかなり大仰なことになってしまって、メンバーの中で一番の後輩としては申し訳ないような…

 そうこうしているうちに佐宗さん登場、まずテーブルの上に i-Phone をドカッと置いて、うっすらとはえている石地さんの口ひげを指差し「何?ちょっとでもエラそうに見せようって?それ」とまずはひと言。あぁ、佐宗さんだ。

 仁多苑さんはずっと生中を呑み続け、佐宗さんと松田は生中に次いで熱燗を二合徳利で、途中まで瓶ビールを呑んでいた石地さんも熱燗を呑み始めて、徳利の数は10本ほどになっている。会津さんは生中のあと、ビールと同じような色をした、炭酸よりもウイスキーの刺激の方が強いハイボールを呑み、そのあとは焼酎ストレートの味しかしない「焼酎をソーダで割ってレモン入れたヤツ」を呑んでいる。名前がついていないのはメニューに載ってないからだ。カウンターの一番近くの椅子に座る佐宗さんか松田が、お代わりの度に「焼酎をソーダで割ってレモン入れたヤツ!」と叫ぶ。「同じものを」と言えばいいのに、その判断もできなくなり始めているらしい。それはそうと、これ何回叫んだ?みんな一軒目で結構な量を飲んでいる。酔った頭でなんとなく違和感を覚えた。

 いい感じで出来上がったところで店を変えようということになり、石地さんは会計時にタクシーを2台呼んでもらった。どこへ行くのか訊ねると『三条木屋町』という。木屋町通は鴨川の1ブロック西、碁盤の目の東端に近い。出発点は西のはずれで、ほぼ反対側に移動することになる。
「どこいくろー」「三条木屋町だそうです」「んー」おぼつかない足取りでタクシーに向かう会津さん、タクシーに乗り込もうと身をかがめたときにそのまま転げそうになっている。慌てて介助したが、そらあんなに濃いハイボールと酎ハイを立て続けに呑んだらそうなるわな。介助しながら会津さんとふたりで乗ることになったが、走り出したら「どこいくろー」「三条木屋町」「んー」と聞いたような会話を繰り返し、そのまま寝てしまった。三条木屋町までに何度か寝言を聞き、もう一度聞いたような会話を繰り返した。

 大学の近くに松須さんがバイトしていた『ん』という居酒屋があった。身内が呑みに行くといろいろサービスで持って来てくれたが、それを自分で呑んでしまう。客よりも先に酔っ払うバイトだった。今はもうその店舗はなく、同じ系列の木屋町店に入る。そこでもひとしきり呑み、食い、喋っている。今度こそ宝饒さんをつれてくる、だの、古邑さんは北海道だけどもうすぐ本州に戻ってくるから呼べる、だの、この企画は続行されるらしい会話があったのは覚えている(どっちの店だったか覚えてないが)。会津さんと佐宗さんはなにやら辛辣な口調で言い合っているかと思ったら、その矛先を残る三人に向けてきたりする。ここらあたりに来て『りゅうせん』で感じた違和感の見当がついた。「違和感がない」ことだったのである。目の前で展開される酔態は、自分の酩酊感を含め、築数十年木造元置屋の二階北側の部屋で眺めていた様子・感覚とまったく変わらない。ほぼ二十年ぶりに再会したことに対する戸惑いだとか、感慨だとか、そういったものはまったく、微塵も、これっぽっちも、『ビタ一文も』見受けられない。ということはつまり、そこにいるみんなが卒業後確実に積み重ねてきたであろう年月が「まったく意味を成してない」ことになるのではないか?ええい、冒頭部『歳相応な』からの二文削除!

 大阪組が終電で帰って行き、残ったのは三人。もう一本ビールを追加して石地さんと話をした。会津さんは素足になって椅子の上に折り畳まった状態で寝ていて、時折目覚めて会話に加わった。

 その一本を飲み干して、もう1軒行くという石地さんと『次回』を約束してから会津さんとタクシーに乗った。ホテルまでにまた何度か会津さんの寝言を聞き、しこたま呑んだ自分も寝落ちしかける。午前0時を回った頃にホテルについて、ふらつきながら「はれぇ、カサがない?」という会津さんを部屋に送り届けた。同じホテルでよかったわ。

 翌朝は『篠突く』土砂降り、とても外を歩けるような状態ではない。1本のカサを頼りに地下鉄の駅まで行き、京都駅まで出て会津さんのカサを買った。前夜の呑みすぎによっていくらか脱水気味なふたりはとりあえずコーヒーを飲んで、帰りの切符を確保するために金券ショップに立ち寄った。朝昼兼用の食事を取った蕎麦屋で、今はもう結婚して読み方のわからない苗字になっている鞍多に前夜の写真を送る。するとすぐに「次、行くから呼んで」と返ってきた。

「鞍多今どこにいんの?」「千葉」「千葉から来るかぁ?でも、あいつなら来るか」「多分ねぇ」

 名古屋と鳥取からやって来たふたりがそんな会話をしている。きっとこれから一座は増える。増えても同じ、呑み始めればすぐに間の二十年はなかったことになるんだろう。

 午後早い時間の新幹線で帰って行く会津さんを見送り、別れ際に握手をした。

 「じゃあ、また!」

御馳走中華 歌い放題プラン

2011-06-07 08:31:47 | 洛中洛外野放図
生ビールが出てきたところで、料理を注文した。
「それと、『季節の野菜炒め』と『湯葉と野菜の葛かけ』と…」
と言いかけると、日本語はまだよくわからないので、メニュー表のそれぞれの料理名の横に振ってある番号で言ってくれといわれた。
「あー、これ、49番と48番、それと34番と27番」
「炒蔬菜、炒素□(中国簡体字・火偏に会)、干烹鶏、糖醋肉、ひとつ?」
「あ、うん、ひとつずつ」
四条大橋の西詰め、南側に古くからある北京料理店『東華菜館』本店は毎年5月から9月にかけて『鴨川納涼川床』を開催するので、4~5人で連れ立って毎年夏に何度か足を運んだ。ホールスタッフは中国人留学生が多く、そのときはたまたま日の浅い人に当たったらしい。確認されても正味の中国語なので、合ってるのかどうかよくわからない。それまで何度か行った中でそんな経験は初めてだったが、まぁ、メニューに載っているものなので、食えんモンは出てこないだろう。とはいえ、だ。

 ここの建物はウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏(といっても誰だかわからないが)の設計になる『スパニッシュ・バロック様式』だそうで、大正時代の俊工時そのままの姿を残している登録有形文化財なのだという。エレベータは手動式で、アメリカOTIS製(といっても何のことだかわからないが)の日本に現存する最古のものだそうである*。このどうしようもなくレトロで大正モダンな風情漂う洋館で食事をするのになんというか憧れていた。一品の値段はスープやデザート類を除いて1,200円~1万円くらい、本格中華としてはお手ごろなのであるが、なにせ普段の食事に一日1,000円もかかってない、というかかけられないようなヤツらなのである。最初の注文も1,600円を越えるものは含まれていない。間違えて高いものを持ってこられたら、食えんモンではないだろうが財布と相談の上、ということになっても困る。そこで一番年下の平田に「いざとなったらお前が残って皿洗いなとホールの掃除なと、命じられるまま働いてくるように」と因果を含めているうちに料理がやってきた。
一皿置いていくごとに料理名を言われたのだが、わからない。見てもわからないのがあったので、「どれ」とメニューを見せると「これとぉ、これ」と指差してくれた。合ってはいるようです。何品か頼んでも全部一人前である。それを4人で分けようというのだから到底足りるものではない。そのうち生ビールと中国酒で気が大きくなってくる、となると当然アレが食いたいのコレ持って来いの、ということになる。だが結局追加したものもすべて3,000円未満に収まっている。

「何かせせこましいな、もっと高いモンどう?」「んなこと言ったって、フカひれとかアワビとか、高いもん食ったことないですよ。ホントにうまいんですか」「知らんがな。そんなモン食ったことはおろかナマで本物見たこともないわ」

なにしろ北京ダックの身を食わせろとか言い出す始末である。どうやらこういうところで食事をする資格のある者はいないようで、そのような連中が憧れだけで背伸びしている。

 食うだけ食ったらもう繁華街に用はない。そのまま河原町界隈の店になだれ込むこともあったが、大概は白梅町周辺まで戻って、または誰かの下宿に行ってそのまま呑み続ける。大概はウイスキーとかカクテルとか、強めの酒をショットで飲めるようなところに行った。

ところが一時期「二次会はカラオケ」という流れになることも多かった。そんなわずらわしいことをするよりもただ酒を呑んでいるほうが好きなのだが、そうはいっても付き合いはある。『大阪で生まれた女』を歌ったりしていた。普通に歌われている普及版はディスコの帰りから始まるが、BOROによるオリジナル版は18番まであって、三十数分にも及ぶ一大叙事詩である。大阪の高校時代から始まるので、ディスコで踊り疲れるまでが結構長い。あるとき「全部歌えるか」と聞かれて、何の因果か全部知っていたので「たぶん歌える」と答えたところが、6回連続で入れられてしまった。しょうがないので歌ってはみたが、やめた方がいい、さすがにダレる。後半は歌うほうも聞くほうももうヘトヘトになっていて、間奏中ソファに倒れこんで「水…」。
メンバーがメンバーなだけにテーブルの上にソフトドリンクなんぞは置かれていない。しょうがないからビールをがぶがぶと飲んで肩で息をしていると、横から古邑さんがメニュー表でパタパタと扇ぎはじめた。「もうちょっとやぞぉ」セコンドかい。最後のほうはもう誰も聴いてやしねぇ。けれども誰も止めようともしねぇ。こうなるとこっちも意地である。アホ声を張りあげてがなり倒していると、仲のいい、というかほぼ出来上がっている男と女が隅の暗いほうで睦言を繰り始めた。
「イチャつくなァ!」
同じ曲を6回も入力した張本人である曳田は床に転がって寝落ちしている。魂が叫んだ。
おれの歌を聴けえぇ!

このあたりなんだかもう訳のわからない状態で怒り心頭に発していた。こんなもん、楽しいか?

させたヤツらが悪いのか、歌ったワタシが悪いのか、われながらアホなことをしたものである。この後二度と「大阪で生まれた女オリジナル版フルコーラス」企画が出ることはなかったが、また企画が出ても二度とすることもなかったろうが、当時コミックソングを集めていたので、クレイジーキャッツやドリフターズの「ひとりメドレー」をさせられたこともある。当時は自分でも好きでやっているような気になっていたが、後になってみるとカラオケで「楽しんだ」という感じではなく、銘銘好きな歌を歌って楽しんでいる中、一人荒行をしていたような感じがした。
おかげさまでこのころの経験が軽いトラウマとなって残っているようで、現在に至っては大のカラオケ嫌いになり、楽しそうにカラオケしている連中さんを見ては「ケッ」と思うようになってしまったのである。

 *『東華菜館』メニューと建物の詳細は東華菜館HP http://www.tohkasaikan.com/ を
参照しました。