学生にとって伝統があるとすれば大学の、ずっと前の先輩から連綿と受け継がれたお決まりの、傍から見ればくだらない行事くらいのものだろう、学生の暮らす京都に伝統なんぞありはしない。大学には毎年時代祭の行列の求人が来るが、一度経験して二度とやりたくないと思ったという米谷によると平日に早朝からほぼ一日拘束されるので気分的に割に合わず、歴史的装束と言えば聞こえはいいが列の真ん中あたりを行進する者は自前のジャージの上から張りぼてのよろいをつけさせられているのみだというから、伝統に加担しているという実感もないらしい。第一、京の『三大祭』に数えられてはいるもののその発端は平安神宮の創建時、百年余りしか経っていないので加担すべき伝統というほど伝統がある訳でもなさそうである。だから学生のバイトなのだろうけれど。千二百有余年の古都とは言い条、旅客に向けられた広告のキャッチコピーと旅客の脳の内に広がる都は代代京都に住まう人人にとってビジネスの場ではあっても生活の場とはなり得まい。学生という年限つきの一時的居住者と観光客は『生粋の』京都の人が自分たち来訪者にはとことん親切に接してくれるのを良いことに、勝手気ままにイメージする京を遊び暮らして通過していくのである。もっとも遊んでいるのか遊ばれているのか、はたまた遊ばされているのかそれは知れたものではない。
千本中立売の交差点から少し上がった西側にある大きなパチンコ店の横手の路地を入っていくと古い撞球場があった。ビリヤード場なのだけれど、店に入ると三和土に縦並びで2台据え付けられている。壁の上の方には舞妓さんの名前の入った団扇がずらりと並び、そこら辺一帯がかつて賑っていた『西陣京極』であったことを、またその頃の華やかな様子を偲ばせる。店舗と自宅が一続きになっていて、三和土から上り框(がまち)がありそのまま和家具と卓袱台の置いてある座敷に上がれるようになっている。なぜだか暑い時期にしか行ったことがないが、行くとまず座敷と三和土を仕切る簾の向こうから「暑おすなぁ」という声がかかり、冷たいお絞りと麦茶かコーラを出してくれる。店をやっているミヤコ蝶々をどうにかしたような顔つきの小柄なおばあさんは、いつも涼しげな色合いの軽装で白粉気も上品な感じがする。矍鑠(かくしゃく)としておられて、かつて繁華な歓楽街のど真ん中で店を切り盛りしていたことからくるものであろう自信と余裕と強(したた)かさ、が伺える。それほど通ったわけでもないけれど、行くとよく遭遇するかなりご年配の常連客がいた。真夏の京都のあの暑さの中いつもジャケットを着込み、ハンチングをかぶっている。店に入って片足を引きずりながら空いている台に向かい、壁に立てかけてあるキューを選んで一人打ち始め、終始無言なのだがおばあさんはいつの間にか飲み物を持って出て台の脇にあるテーブルに置いていく。30分ほど遊んで「ほな、な」と簾の向こうの座敷にいるおばあさんに声をかけると「へぇ、おおきに」と、遊びなれたのと遊ばせなれたのと、双方に無駄な動きも無駄な言葉もない。その店と客とがかもし出す風雅な雰囲気にはビリヤードという言葉よりも撞球という漢字の方が似つかわしい。何度か行くうちにおばあさんとも常連さんとも言葉を交わすようになり、往時の賑った様子などを聞かせてもらったりもした。もっとわかり易いところにもっと広くてもっと明るいビリヤード場はいくらでもあったけれど、実際そういうところにも出入りはしたけれど、昔の遊びの『粋』の名残に弄ばれながら遊ばせてもらっているような、その店の雰囲気の方が好みだった。
同じ界隈にはそんな店がいくらもあって、そこから少し下がったところ、中立売通の手前の西側にある居酒屋も似たような感じで。なんでも昭和9年からやっているという古い店で、町家風の土間にどっしりとしたコの字型のカウンターがしつらえてある。けっこう年配の大将もその母親というおばあちゃんも色色話をしてくれて、何より藤山直美を髣髴とさせるお上さんの元気な笑い声が楽しく「ぬかか」と豪快に笑う。初めて行ったときから気さくに話しかけてくれたのは古い店一流の一見(いちげん)さんの捌き方だったのだろうが。戦後からずっと使っているという古いレジスタがあって、その初めて行った帰りがけ勘定を払う際におばあちゃんとお上さんとに散散自慢されたが、ふたり楽しそうに話す京ことばが耳に心地よくて、気持ちよく酔ってまた行きたいと思ったのはお酒のためばかりでもあるまい。「今日こんなんあるでぇ」と京風の味付けを色色と教えてもらっていた、という感じだった。こちらの懐具合も見事なまでに読まれていて、ほどほどのところを勧めてこられるのはさすがにプロである。特に季節ごとの京野菜が嬉しくて、普段飲むときはあまり物を食わなかったが、ここではいろんな物を食わせてもらった。あるとき後輩の菱川と飲んでいて、小鉢で出された雲丹くらげにいたく感動した菱川はあろうことかあろうまいことか御飯を頼むという暴挙に出た。何をすんねんと横で燗酒を飲んでいると「ま、いっしょにどう」と出された赤出汁がとても美味い。白身魚の切り身でその場で作ってくれるのが病みつきになって、とうとう『〆に赤出汁』がそこでの定番になってしまった。無論、他のところでやったことはない。ここではそれまで知らなかったお酒の楽しみかたを教わって上手にのせてもらって遊ばせてもらっていたような、遊ばれていたような。
これらの店に見るように、古(いにしえ)からの一大観光都市では押並べて客あしらいが巧い。外から来た者が抱く勝手気ままなイメージを、肯定も否定もせずただ好きなように遊ばせて満足させるような『しなこい』一面を身上としていながら、ところどころにそのプライドの片鱗を覗かせるようなところもある。ただその本心がどうであれ、来訪者はそのしなこいところに乗っかって思い思いの京を楽しく遊び暮らせばいいのだろう。たぶん、そういう街だ。
千本中立売の交差点から少し上がった西側にある大きなパチンコ店の横手の路地を入っていくと古い撞球場があった。ビリヤード場なのだけれど、店に入ると三和土に縦並びで2台据え付けられている。壁の上の方には舞妓さんの名前の入った団扇がずらりと並び、そこら辺一帯がかつて賑っていた『西陣京極』であったことを、またその頃の華やかな様子を偲ばせる。店舗と自宅が一続きになっていて、三和土から上り框(がまち)がありそのまま和家具と卓袱台の置いてある座敷に上がれるようになっている。なぜだか暑い時期にしか行ったことがないが、行くとまず座敷と三和土を仕切る簾の向こうから「暑おすなぁ」という声がかかり、冷たいお絞りと麦茶かコーラを出してくれる。店をやっているミヤコ蝶々をどうにかしたような顔つきの小柄なおばあさんは、いつも涼しげな色合いの軽装で白粉気も上品な感じがする。矍鑠(かくしゃく)としておられて、かつて繁華な歓楽街のど真ん中で店を切り盛りしていたことからくるものであろう自信と余裕と強(したた)かさ、が伺える。それほど通ったわけでもないけれど、行くとよく遭遇するかなりご年配の常連客がいた。真夏の京都のあの暑さの中いつもジャケットを着込み、ハンチングをかぶっている。店に入って片足を引きずりながら空いている台に向かい、壁に立てかけてあるキューを選んで一人打ち始め、終始無言なのだがおばあさんはいつの間にか飲み物を持って出て台の脇にあるテーブルに置いていく。30分ほど遊んで「ほな、な」と簾の向こうの座敷にいるおばあさんに声をかけると「へぇ、おおきに」と、遊びなれたのと遊ばせなれたのと、双方に無駄な動きも無駄な言葉もない。その店と客とがかもし出す風雅な雰囲気にはビリヤードという言葉よりも撞球という漢字の方が似つかわしい。何度か行くうちにおばあさんとも常連さんとも言葉を交わすようになり、往時の賑った様子などを聞かせてもらったりもした。もっとわかり易いところにもっと広くてもっと明るいビリヤード場はいくらでもあったけれど、実際そういうところにも出入りはしたけれど、昔の遊びの『粋』の名残に弄ばれながら遊ばせてもらっているような、その店の雰囲気の方が好みだった。
同じ界隈にはそんな店がいくらもあって、そこから少し下がったところ、中立売通の手前の西側にある居酒屋も似たような感じで。なんでも昭和9年からやっているという古い店で、町家風の土間にどっしりとしたコの字型のカウンターがしつらえてある。けっこう年配の大将もその母親というおばあちゃんも色色話をしてくれて、何より藤山直美を髣髴とさせるお上さんの元気な笑い声が楽しく「ぬかか」と豪快に笑う。初めて行ったときから気さくに話しかけてくれたのは古い店一流の一見(いちげん)さんの捌き方だったのだろうが。戦後からずっと使っているという古いレジスタがあって、その初めて行った帰りがけ勘定を払う際におばあちゃんとお上さんとに散散自慢されたが、ふたり楽しそうに話す京ことばが耳に心地よくて、気持ちよく酔ってまた行きたいと思ったのはお酒のためばかりでもあるまい。「今日こんなんあるでぇ」と京風の味付けを色色と教えてもらっていた、という感じだった。こちらの懐具合も見事なまでに読まれていて、ほどほどのところを勧めてこられるのはさすがにプロである。特に季節ごとの京野菜が嬉しくて、普段飲むときはあまり物を食わなかったが、ここではいろんな物を食わせてもらった。あるとき後輩の菱川と飲んでいて、小鉢で出された雲丹くらげにいたく感動した菱川はあろうことかあろうまいことか御飯を頼むという暴挙に出た。何をすんねんと横で燗酒を飲んでいると「ま、いっしょにどう」と出された赤出汁がとても美味い。白身魚の切り身でその場で作ってくれるのが病みつきになって、とうとう『〆に赤出汁』がそこでの定番になってしまった。無論、他のところでやったことはない。ここではそれまで知らなかったお酒の楽しみかたを教わって上手にのせてもらって遊ばせてもらっていたような、遊ばれていたような。
これらの店に見るように、古(いにしえ)からの一大観光都市では押並べて客あしらいが巧い。外から来た者が抱く勝手気ままなイメージを、肯定も否定もせずただ好きなように遊ばせて満足させるような『しなこい』一面を身上としていながら、ところどころにそのプライドの片鱗を覗かせるようなところもある。ただその本心がどうであれ、来訪者はそのしなこいところに乗っかって思い思いの京を楽しく遊び暮らせばいいのだろう。たぶん、そういう街だ。