履 歴 稿 紫 影 子
北海道似湾編
古雑誌と次郎 7の3
その日は、北海道の総鎮守札幌神社の本祭の日であって、朝夕の気温は若干冷えたが日中は、風薫る初夏の様相を呈した六月の十五日であった。
十四日の朝礼に校長先生が、「明日は札幌神社のお祭だから学校休みだ。」と全校生に告げたので、私は「よし、明日は次郎と遊ぼう。」と、この日彼の家を訪れたのであったが、私の郷里の香川県では、丁度梅雨の季節であるので、終日霧雨がしとしとと降ってじめじめして居るのを、これ幸いと油虫が我が世の春とばかりに台所はもとより部屋と言う部屋の此処彼処を逼い廻るので、家の内外が共にうっとうしくて、幼ない私の神経をもいらいらさせる季節であった、併し北海道へ来てからこの季節を迎えるのは、この年が二度目であったのだが、去年も、そして今年も、晴、曇風、雨と言う気象の変化は、自然がもたらす通常的なものであって、嘗て私が郷里で味わった卯の花の咲くのを見て、梅雨や来たるの予感に嫌悪を感じて居た、と言うような感覚は全然無かった。
この日の天候も、多少曇ってはこそ居たが、梅雨の季節のうっとうしさと言うものは、全然感ぜられなかったと言うばかりで無く、川岸の柳を葉鳴らす風には、初夏を匂わすものが多分にあった。
川は対岸の山裾を洗うように流れて居て、次郎と私が馬を乗りつけた川岸へ、逐次浅瀬から河原と言う状態であった。
流れは四、五月頃の雪融け水が、怒濤の濁流となって岸を噛むと言うような水勢ではなかったが、流れの幅は依然として広く、岸の河原を殆んど呑んで居た。
私達が川岸へ馬を乗りつけた時の川には、浅瀬から河原一面に松丸太(蝦夷松を六尺、九尺、十二尺と言った長さに切った物)が乗りあげて居て、その丸太を五、六十人の流送人夫が、長さ二米程の竹竿を柄にした鳶口を巧みに使って、「ヤンサデコラショ」とか「ドッコイショウ」と、その当面の作業状態によって異なる音頭と掛声で、深みへ流し込んで居た。
「オイ、あの丸太はなぁ、鵡川まで流送をして其処から軽便鉄道で苫小牧の製紙工場へ送るんだぞ、それからなぁ、この川のずうっと川上に王子製紙の原料山があってよ、冬の間に造材をした丸太をよ網場(丸太を巧みに組んで川をせき止めた所)まで馬で集めて毎年五月頃になると、雪融けで増水する時期に網場を切って、流送するんだ。」と、次郎が説明をしたが、私も既にこの事は知って居た。
併し、こんなに多勢の流送人夫が、賑かな音頭で作業をして居る所を見るのは、この時が初めてであった。
次郎と私が馬上から声を揃えて、「オーイ」と、対岸の山麓に在る渡守の小屋(渡船場は地方費で賄われて居たと思うが、渡守の小屋は葭葺きの家であって、その構造も次郎の家と同じ掘建小屋であった)に呼びかけると、その小屋からも山彦のように、「オーイ」と言う応答があって、白髪を肩まで総髪にした愛奴の渡守が出て来た。
人馬はもとよりのこと、荷馬車をも渡すと言う扁平底の団平船が、川の流れを直線に横断をするために岸から岸へ施設をして在った太いワイヤロープに、その団平船の舳から細いワイヤロープで連結をさせて居る滑車が、ギイッ、ガアッと軋みながら私達二人が待って居た岸へ漕ぎ寄せて来た。
「オイッ、俺達は馬からおりなきゃ駄目なんじゃ無いか。」と私が、次郎に呼びかけると、「なあに、良いんだよ。この儘で船に乗れるんだよ。」と言って次郎は、二人が乗った儘の馬を、馴れた手綱さばきでその団平船に乗せた。
私達が乗ったその団平船には、渡守の老人の他に、流送人夫が一人乗って居た。そしてその流送人夫は竿で船を押す浅瀬では、先端に鳶口のある竹竿で協力をして居たが、やがて船が深みの流れに進むと、舳の右端に立って上流から続々と流れてくる松丸太を、手練の鳶口のついた竿で巧みに突き放して船の渡川の安全を期して居た。