熱燗をふと飲みたしと想ふなり
あつかんをふとのみたしとおもふなり
大嫌いと思えど君は私の師
右往左往の私の思考
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写真家藤原新也さんの代表作「メメント・モリ」(1983年)は国内外で撮影した人間の濃厚な息遣いと大地の深遠な営みを伝える作品に、生と死を鋭く問う文を添えた。
「本当の死が見えないと本当の生も生きられない」や、インドで死体に群がる犬の写真に付けた「人間は犬に食われるほど自由だ」の言葉は有名だ。
メメント・モリとは、「死を想え」を意味するラテン語。
ペストの流行で生が刹那的、享楽的になった中世末期のヨーロッパで盛んに使われたという。
東京の世田谷美術館で半世紀にわたる藤原さんの活動を回顧する展覧会が開催されている。
コロナ禍で人が消えた街、東北の被災地、香港の民主化運動など近年追いかけたテーマからも人間と世界に注ぐ透徹した視線が伝わる。
東京新聞のインタビューで藤原さんは「接触」の大切さを説いている。
「人は他人と接触しあつれきや葛藤を経ることで、経験値を積み脳が鍛えられていく。それによって不測の事態に判断できる地頭、生き抜くための力が育まれる。」
「接触だらけ」で異文化の人とかかわってきた経験から憂慮する非接触の時代である。
放射性物質が人々を故郷から追いやり、はるか上空から降るミサイルが罪なき人々を死に追いやる。
そこには接触も本当の死を想うまなざしもない。
だから為政者たちは平気で原発を動かし、平気で戦争を続けられるのだろうか。(北海道新聞卓上四季2023.1.22より)
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ふと見た卓上四季の今日の文章です。
中世末期のヨーロッパで使われた言葉だそうだが、現代の人にはどう伝わるのだろうか?
昨日孫たちのゲームを見ていたせいか、卓上四季の文には考えさせられました。
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昨日は楽しい時間を過ごし、孫たちは帰路につきました。
母には孫たちが来たことは、コロナ禍もありで施設に迷惑をかけてもと思い、言わないでおきました。
言ったところで悲しいかな、すぐ忘れるだろうしね。
施設では友達も出来楽しそうです。
昨日、友達が携帯電話はどうなの?と聞かれたとかで携帯電話をかけて見せたようです。
母は札幌にいるときも結構外出が多かったみたいで、携帯は早くから使っていました。
母の妹も携帯が使えないため、コロナ禍で家族とのやり取りが出来なく可哀そうに思います。
指導者が平和を愛する人でないと大国は十分すぎる
武力を持っているのだから。デスネ。」
私が今の侵略は?に コメントを頂いたものです
母上様は ケータイが使えていいですね
折々使えば 声のお便りになりますね~♬
民衆の一部にならないのだろうと、思います。
民は昔から長いものには巻かれろの気質なのかも。