箴言集 「人格をつくる言葉」 大川隆法 著
「人格をつくる言葉」㉟ 自分の肉体を全部自分のものだと思うな。神仏から頂いたものなのだ。
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肉体は親からもらったものである。 不思議なことに、もらった肉体に宿る魂(心)はありがたいと感謝する場合と、余計なお世話であったと反発する場合の子供がいる。心も肉体も同じ親からもらったものならば、反発できないはずである。感謝するにしても、生まれてよいことがあったら、感謝になるし、悪いことがあったら、余計なことをしてくれたと思う。
このように、心も親からもらったとすると、なぜ考え方に親とのずれがでてくるのであろうか?
ここに宗教の役割があるのです。唯物論では答えはないのです。いや答えられないのです。心(魂)は初めからあり、(厳密には神様が作られた)永遠の存在となっているのである。魂がこの世に出て来るには、どの肉体をいただきどの時代に、どのような環境下を選んで生まれるかを計画してくるのである。
残念なことに、この計画をしたことさえ忘れさせられているのだ。
前世の記憶が残っていたら、今世の修行がすすまないのである。昔はお殿様であったとか、お姫様であったとか、奴隷であった、乞食であった、人殺しであったなどなど、アカシックレコードに全て記されているのである。
ゼロからやり直そうとした人生に過去の経験が邪魔して修行が出来ないからである。記憶が消されているが故に、人生の諸問題に体当たりしてみて、心の考え方に個性があり、何度生まれ変わっても傾向性があることを発見し直してゆくのが修行である。
そもそも人生計画を神様が許してもらえたことが、今の自分があるのである。肉体はなくなっても、その都度計画に適合した肉体や環境が与えられているのだ。
つまり、すべて神仏から頂いたものなのであります。