たそかれの散策

都会から田舎に移って4年経ち、周りの農地、寺、古代の雰囲気に興味を持つようになり、ランダムに書いてみようかと思う。

自由・民主・平等と無縁都市 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』その2>

2018-09-26 | 宗教とは 神社・寺・教会 信仰

180926 自由・民主・平等と無縁都市 <伊藤正敏著『寺社勢力の中世』その2>

 

今日もたいした仕事があったわけではないのですが、打ち合わせが長引いたりして、いつの間にか業務終了時間になっています。

 

今朝の毎日紙面は、伊方3号機再稼働容認の広島高裁逆転決定をめぐるものが多面的に取り上げていました。中心争点は「破局的噴火」を考慮するか否か、言葉を換えて言えば噴火の発生可能性をどのような尺度で見るかということかもしれません。

 

噴火予知が科学的には未知な領域でしょうから、これまた判然としない社会通念というものにそのリスク基準を委ねるかどうか、その場合の社会通念の基礎を今度はどこに置くかと言うことになって、結局、憲法が保障している裁判官の良心に委ねることになるかもしれません。その意味では裁判所の構成によって判断が変わることもやむを得ないでしょう。

 

いずれにしも、原発問題を含め社会の中で必然的に発生する多くの多様な紛争は、裁判所に持ち込まれ、そこでの判断により一つの解決の道が開かれているというか、ある意味最終的な解決の方法として残されているのが現代社会ではないかと思うのです。

 

ところで、伊藤氏は中世の時代について、寺社を「無縁都市」という新設造語により、まるで古代ギリシアのポリスのような独立した政治経済の中心として捉え直そうとしているように思えます。

 

今日も読む時間がとれなかったので、整理できていませんが、そこには新しい文化・芸能・技術・商業・軍事産業など、多様な価値を生み出し、独立した都市空間を形成していたかのように、捉えるのです。それは、ある面ではアテナイ、マケドニア、ある面では今度はベニス、フィレンツェなど、とても魅力あふれる都市空間のように聞こえてくるのです。

 

私たちは比叡山延暦寺とか、奈良興福寺、高野山金剛峯寺などと聞くと、現在ではそれぞれ天台宗、法相宗、真言宗を修行する荘厳な場所といったイメージがありますが、中世は全然違っていたようです。

 

伊藤氏の見解は、とくに無縁都市といった根本的な部分は学界の通説とは異なるようですが、それでも、裁判で言えば証拠能力も信憑性も高い、一次資料を基に主張を展開しているので、異論があれば、合理的根拠を示してもらいたいと、原発再稼働問題よりも、確固とした証拠と合理的基準によっているようです。

 

私が「ようです」というのは伊藤氏が示す証拠は誰でもアクセスして見聞できるのですが、まだ検討していませんが、個々の古文書(こもんじょ)を読むだけの能力がないので、ここは伊藤氏の見解が私にとって目から鱗の感じなのと、腑に落ちることも少なくないので、少しずつ勉強しながら紹介していこうと思っています(昨日もそのようなことを書いた記憶で、発展がありません・・・)。

 

ともかく今日私が唯一まともに紹介できるのは伊藤氏が高い評価をし、その見解のよりどころとする「東京大学史料編纂所」の「データベース選択画面」を通じて一次資料の古文書等を誰でもがアプローチして検証できるということです。それ以外で私が紹介した内容は話半分で読んでいただければと思います。

 

無縁所という言葉は、昔から使われていて、教科書にも書かれていたかもしれません。日本中世史家網野善彦氏が、無縁とは世俗権力の私的支配下にないということを意味し、自由思想の中核概念として捉えたとして評価されてきたのではないかと思います。

 

伊藤氏は、網野見解をより掘り下げてというか、その高度で多様な価値を整理し、その強力なエネルギー源を構成する要素を整理して解説してくれているように思われるのです。

 

戦国時代でいえば、有名なのは紀ノ川沿いに独立都市圏が成立していましたね。西から下流域の根来寺(真義真言宗)、東は上流域の高野山金剛峯寺(真言宗)、真ん中の中流域は粉河寺(天台宗)がそれぞれ大大名波に支配権を及ぼしていましたね。それが宗派の違いによって生まれたのではないというのです。

 

それぞれの寺が勢力を伸ばしたのは、その教義ではなく、軍事力や経済力、政治力だというのです。この3寺に限らず、どの寺も内部に多様な宗派の僧侶が入り込み、混在していたというのです。たしかに比叡山は天台宗の本山ですが、多くの宗派が生まれていますね。高野山にも多様な宗派の僧侶が修行に入っていますね。学侶はそれぞれの宗派の教義を懸命に学ぶのかもしれませんが、事務方の行人などは教義はあまり関係ないですし、布教活動で世俗の中に入る聖などは教義そのものにはほとんど関心がなかったかもしれません。それでないと庶民は優婆塞にもなれないかもしれません。

 

南無・・・・といえば、どの宗派でもOKだったことで、有縁の公家・武家などの支配層から逃げ出した人、迫害を受けた人、疎んじられた人などが、いまでいう難民・移民となって、この無縁都市に逃げ込み、初めて自由を勝ち取った多様な移民の集合体となっていったのかもしれません。それは治外法権がこの無縁都市にあったので、朝廷も幕府も警察権も司法権も及ぼすことができなかったようです。

 

なお、河口付近は雑賀衆ですがこれは寺社勢力とまで言えないのでしょうね。ただ、一向宗に荷担したのですから、これもふくめてもよいかもしれませんが、寺社でないということでオミットしているのでしょうか。

 

ともかく、軍事力は、交易・商売が得意だったようで、最先端の武器を大量に購入し、兵隊も訓練されていたので、外人部隊として、各地を転戦したようですね。

 

ちょっと適当に読んだ内容を書き出しましたが、何が興味深いかの要点が定まらず、今日はというか、今日も未消化のママ、さわりを書いてしまいました。捲土重来?を明日に託して、今日はこの程度で終わりにします。また明日。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿