180406 寺社の規律と独立 <宗教界 介入の影に警戒・・・教義提供で>と<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル>を読みながら
寺社は、日本人のみならず外国人にも人気のスポットになっていますね。ある放送で、外国人に説明する中で、神社で言えば鳥居、寺でいえば山門(大門)が世俗と清浄な空間を仕切る結界といった趣旨の解説があり、そこをくぐる前にそれぞれ礼をを尽くすとともに、そこから一歩入ると、浄界に入っていくことになり、それに応じた備えとしきたりがあるというのです。玉砂利もそうでしょう。
そういった仕組みというか仕掛けというか、社寺がもつ雰囲気を醸しだし、実際、心ある人は次第に浄化されていくのでしょうね。しかし、そういった神社仏閣も人間が営むわけですから、人間の中にはなかなか世俗の汚れを払いきれない人も少なくないですね。
今日の産経ウェブ記事<3億円詐欺で共犯に問われた住職と檀家総代が法廷バトル…「信じたのが間違い」VS「利用された」>は、以前、このブログでも少し取り上げた松山市の黄檗宗の寺院「安城寺」を舞台に黄檗宗大本山「萬福寺」まで巻き込んだ事件で、共犯者とされた両者が法廷でバトルを演じているようです。
共犯事件では、よくあるパターンで、仲間割れというか、どちらがだました、だまされたという話でしょうか。
<寺の住職と檀家(だんか)総代。二人三脚で数億円を集金したとされる男2人は、公判では手のひらを返すように真っ向から対立している。黄檗(おうばく)宗寺院「安城寺」(松山市)の土地・建物を担保に1億5千万円の融資を受けた不動産会社に損害を与えたなどとして、背任や詐欺罪などに問われた住職、片井徳久(57)と檀家総代の宇都宮貞史(42)両被告の裁判。>
<2人はそれぞれ「宗教家であることを宇都宮被告に利用された」「住職(片井被告)を信じたのが間違いだった」と主張している。寺を舞台にした巨額詐欺事件の真相は何だったのか。審理は佳境を迎えている。>
詳細は記事をご覧ください。私がこの件を取り上げたのは、寺の不動産を担保提供すること自体、宗教法人法のルールが無視されている印象を持ったからです。宗教法人法上、23条の財産処分の一つに当たり、公告をはじめ厳格な手続きが必要ですし、別に定める規則で責任役員の決定事項とされたり、総代会への報告事項とされたりして、一定の民主的コントロールのような世俗の原理を用意していますが、はたしてこのような手続きが厳格に運用されていたか疑問です。
宗教法人法は、一方で宗教団体や構成員の信仰の自由を尊重しつつ、世俗的な民主的合理的な管理ルールを定めていますが、実際の寺社などでこのルールを厳格に遵守しているところは多くない印象です。むろん一般企業が企業法務をしっかり遵守しているかというと、大企業ですら問題があるわけですから、宗教法人だけを責めるわけにはいかないかもしれません。
とはいえ、オウム真理教事件を含め、さまざまな宗教団体による問題行動が起こってきたため、その都度、一定の法規制がされてきましたが、その法規制が遵守されているか監督行政において生ぬるい印象を感じています。それが直ちにこの詐欺・背任事件に結びつくとはいえませんが、温床になりうるとは思うのです。
さてもう一つの裁判に関係すると見られる?話題が先日の毎日記事です。<宗教界介入の影に警戒 国補助研究、教義提供で 京都仏教会が反対決議>とのタイトルで、
<国の宗教法人審議会元会長で憲法学者の大石眞・京都大名誉教授らによる「国法と宗教法人の自治」をテーマにした研究が、宗教界に波紋を広げている。>というのです。
それは<研究グループは宗教団体に教義や規則など内部文書の提供を求めた>ことが原因です。そうですね、教義は一般には公開されていませんね。私は仕事上、いくつかの宗派の教義を知っていますが、難解で、それを現代の規範に当てはめるといった作業というか、解釈は必要でしょうね。
もう一つの規則は、宗教法人法で規定している規則でしたら、所轄官庁の認証対象ですから、行政はすべて当然保持していますが、国の補助を得た機関であっても提供の対象にはならないのでしょうね。ただ、同法で認証を受ける規則にはあまり信仰の教義に関係するような内容は含まれていないように思います。これを研究対象として利用できることくらいは寛容であってもよいと思うのですが、どうでしょう。
<国の補助金を受け、宗教行政を所管する文化庁宗務課の職員も加わるなどしていたためだ。宗派を超えた京都の寺院でつくる京都仏教会が「国家権力が介入する道を開く」と反対を決議する事態になっている。【宮川佐知子】>ということですが、たしかに教義まで求めるとなると、その機関の中立性・独立性の担保が必要でしょうね。
ただ、記事を読むと提出を求めたのは<自治権行使の現状を調べるとして、宗教法人・団体の「規則集一式」の提供を求める内容だった。>ということで、その規則集の中には、宗教法人法が求めているもの以外も含まれているのでしょう。
その提出を求める合理的な理由・必要性があるかも検討されるべきでしょう。
<研究に関する資料では、研究の背景について「オウム事件以後、宗教法人法改正で宗教法人への国法(国の法令)の関与が強まり、自治権と運営の適正確保の要請との調整が重要な問題になった」と説明。その上で「どのように調整すべきかは、宗教法人・団体の自治規範の具体的内容を理解しなければ検討できない」としている。>
趣旨は抽象的にはわかりますが、<自治権と運営の適正確保の要請との調整>ということであれば、そのような目的に絞った規則に限定して提出を求めるべきではないかと思うのです。教義に関わるような内容は除外するとか、宗教法人において任意に選別できるとかを明示すべきでしょうね。
<大石氏は「学術研究目的で、私には何の公権力もない。協力できない宗教法人には強制しておらず、説明にも応じている」と話している。>とのことですが、宗教法人としては過去の糾弾された、強制された歴史がありますから、より丁寧なアプローチがあってもよかったのではと思うのです。
また、<大石氏は宗教と法令の「調整」が課題になる一例として、日本カトリック司教協議会が「公職受諾を禁じる教会法に抵触する」として聖職者の裁判員辞退を最高裁に申し入れた例などを挙げている。>ことを取り上げているようですが、そのことから、教義自体の提出を求める根拠としてはいかがかと思うのです。
その点では<島薗教授は「教団の規範が宗教の社会性にどう影響しているかは興味深いが、さまざまな当事者の立場を考慮して理解を得ることが大切だ」とし、調査方法などの見直しを求める。>という意見に賛同します。
ただ、認証規則については、基本、世俗のルールに類するものに近いといえますし、それがきちんと実態に合った形で規則の変更などが行われていなかったり、規則通りに管理が行われていないところもあるのが実情ではないかと思います。そのような実態把握こそ、むしろ必要ではないでしょうか。
今日はこの辺でおしまい。また明日。
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