180513 リスクへの対応 <リスク回避偏重の社会 若者の自由が育たない>を読みながら
赤信号みんなで渡れば怖くない、という流行語は昔はやりましたね。私はこのことばを聞くたびに、信号機というもの、みんなと同じ行動というものについて、天邪鬼的発想が浮かんでいました。
青信号で横断歩道を渡ることでも、あるいは車で通過することでも、危険は潜んでいると。仕事柄、信号機のある交差点で青色で通過中に側面から衝突され、数回転して停止し、もう少しで死亡する程の大事故にあった方の事件を担当したことがあります。また、青信号を渡っている少年を疲れで運転中眠ってしまって引いてしまった加害者の刑事事件を担当したことがあります。幸い死亡に至りませんでしたが、重傷を負わせたのです。
2つの例は私が担当したあってはならない事故のほんの一部です。これらは信号機の青信号だけを信頼しても、リスクを完全には回避できない一つの例です。いや、交通事故だけではありませんね、社会にはおそらくそれをリスクと思ったことがないようなリスクに満ちあふれていると思います。そんなさまざまなリスクを心配していたら、中国古代の杞の人のように天が落ちるのではないと不安になり夜も寝られず、食事ものどに入らないことになりましょうね。
とはいえ、社会の中でリスクを少なくする、様々な配慮が必要なことはたしかです。しかし、あまりに配慮しすぎた結果、本来存在しているリスクをまったく感じなくなり、リスク発生の可能性やリスクの回避といった、個々人が本来やるべき能力が退化していく「リスク」もあるように思うのです。
私は子供が小さい頃からできるだけリスクを実体験させ、その危険の意味を体感させようと心がけてきた?変わった性格の人間かもしれません。信号機が青色であっても、左右を確認して渡るようとか、踏切があればそこに連れて行き、遮断機が下りたときの電車が通過するのを肌で感じさせたりしました。木登りなどはよくさせましたね。リスクを体感し、それを事前にキャッチし対応するには、人間の本能を蘇らせるのにいいと思っています。
そういえば最近のテレビで、リスク回避を指導している方が登場して、高層階のベランダから落下する子供の事故に関して、ベランダの高さや、ベランダ内の鉢などの置物の危険性を指摘した後、ベランダに出ることのできる窓の錠に加えて、子供が外せない装置を取り付けることをアドバイスしていました。
たしかにベランダからの落下のリスクは回避できるでしょう。しかし、本当にベランダ自体がもつ普遍的な危険性を子供が理解できないまま育つことの「リスク?」も感じてしまいました。自宅のベランダはその特別の装置で、落下危険を回避できるでしょう。しかし、外階段を含め、社会にはさまざまな危険があります。いやこういったハードの危険は安全配慮の装置をどんどん作れば、ある程度までリスクを少なくできるでしょう。しかし、それでは個々人がまるで完全に防御された社会でないと生活できなくなるおそれがないでしょうか。
と長々と饒舌な話になってしまいました。
さて<時代の風リスク回避偏重の社会 若者の自由が育たない=長谷川眞理子・総合研究大学院大学長>の記事は、賛同することが少なくない内容でしたので、紹介したいと思います。
長谷川氏は野生のチンパンジーの研究をやってこられたそうで、私の依頼人にもそういう方いらっしゃいました。ま、研究熱心で、事件処理においても私と長い議論をしたことがあるのを思い出しました。
さて長谷川氏の究極の研究場所が<タンザニアの首都ダルエスサラームから西に1000キロ入ったタンガニーカ湖畔。もちろん電気なし、ガスなし、水道なし。湖畔の小さな町からの交通手段は船外機をつけたボートしかない。周囲150キロ以内に病院もない。ここで通算2年半の調査を行った。>
そういえば、私も30年前、ボルネオ島の先住民の集落を訪れ、その伝統的なロングハウスで一緒に寝起きしました。ただ、基本、電気もガスもなく、天水でしたので、水のありがたさをとても堪能しました。お風呂はもちろんなく、近くのバラム川という土砂混じりの大河で水浴びするだけでした。寝るのは板敷きで、むろんマットもありませんから、当初はその堅さになかなか慣れるのに大変でしたが、疲れてへとへとになれば、自然に眠ってしまいますね。長谷川氏のような長期の調査ではないですが、それでも3年間通い?ました。
で長谷川氏は困りごとを取り上げています。<このような経歴なので、およそどんなことにも驚かない。しかし、困ったことに、後継者があまりいないようなのだ。>
その困りごとがさらに展開して、その根源を探っています。<今の若い人たちは、親に言われるとその通りに聞いてしまうようだが、彼ら自身、リスクを冒すことを非常に嫌う。我が国のリスク回避の傾向は、さまざまな統計で明らかだ。今どき、殴り合いのけんかをする若者などほとんどいない。人を殺す若者の10万人当たりの数は、戦後減少している。不慮の事故死も同様。自治体も学校も、子どもにけがをさせないように万全の注意を払っている。大学の野外実習も、昔と同じことはとても「危険」でできない。そして、電気、ガス、水道は当然あり、ネットも完備されている先進国への海外留学の希望者すらも減っている。>
壮大なリスク回避社会が作られているのでしょうかね。
<子どもの数が少なくなり、子どもの死亡率が下がり、1人か2人の子どもを大事に育てるようになった。そこで、リスクなんかとても冒せない。日本が安全で、ある意味で居心地のよい社会になるにつれ、人々はリスク回避を極端に重要視するようになった。そして、子どもは絶対に安全に育ってほしいと願うし、そうであって当然と思うようになる。そうして、誰もはっきりと計画していたわけではないが、大いなるリスク回避の社会ができてしまったのだろう。>
次の言葉は同感です。
<肉体的には、ある程度の冒険をしなければ、どこまでが自分にも他人にも安全なのかは体得できないと思うのだ。それをせずに、肉体的安寧に慣れてしまった中で、知的な意味での冒険だけは可能なのだろうか?>
たとえば私が最近よくとりあげる田中陽希のグレートトラバースでは、陽希さんの並外れた体力もさりながら、リスクを回避し、あるいはリスクをときには冒す、その絶妙ともいえる判断力も魅力的です。彼は先人が作ってきたルートを基本にしつつ、それを事前に研究した上、その日の気象や実際の環境を鋭い観察で認識、識別して、ときに変更して別ルートや独自のルートを選択することもあります。
これは起業家、イノベーターも、似たような判断力、行動力が求められるのではないでしょうか。私の依頼者であったある方は製薬メーカーの研究所の所長を過去にされていて、薬の開発では99%以上失敗で、その繰り返しの中で、発見があると言われていましたが、リスクを冒すのが人間にとってとても大切なこととも言われていました。私には貴重なアドバイスでした。
長谷川氏の最後のつぶやきは、これまた私も賛同します。
<リスク回避の傾向は、若者の自由な発想やイノベーション、人生の目標を多様に設定する自由をも阻害してはいないか? 安全確保は大事だが、いろいろな意味で前人未到の領域に踏み出そうという若者を育てるには、それを許し、背中を押す社会でなければならない。私たちは、果たしてそういう社会を作ってきたのだろうか。>
今日はこのへんでおしまい。また明日。
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