171129 花と禅その1 <「心配」から「心配り」の心構え>
朝は体調の変化がよくわかります。ここのところ半年かけて体重増加を果たしたリバウンド(通常は痩せる場合でしょうけど)で、どうも体調が良くありません。寝起きも悪くなりました。胃腸に負担がかかったのでしょうね。もう少しひどくなれば医者に相談することにしたいと思っています。
今朝は少しすっきりしました。最近読み出した、臨済宗全生庵(ぜんしょうあん)住職・平井正修(しょうしゅう)著『花のように、生きる』で、少し爽やかな感じが心の中に醸成されてきているように感じることも影響しているのでしょうか。特別新しいことが書かれているようにも思わないのですが、語り口がいいですね。以前、空海に関するさまざまな書籍を読んでいるとき、共感を感じつつも、遠い存在と思ってしまいましたが、平井住職の場合は、おそらく60歳前後で僧侶としては脂ののった世代ではないかと愚考しますが(年齢に誤解があったようで訂正しました。最近若手のご住職がいい著作なりTVで発言されていますね)、なんとなく心の襞に自然に触れてしみこんでくるように思うのです。
それで、できたらしばらくこのシリーズを続けてみようかと思っています。実は、以前、玄侑宗久氏の著作にずいぶんと感銘を受け、その著作を紹介しようと思ったりもしたのですが、同じ禅宗とはいえ、かなり色合いの異なる平井氏流アプローチの方がよりいまの私にあっているかなと思い、まずはここから始めようと思ったのです。
長々と前置きが続きましたが、その第一番が見出しのテーマです。思いつくまま、著作の順序にこだわらず、その一部を援用しつつ、私なりの思いを書いてみようかと思います。
生きている限り、心配の種は尽きないですね。浜の真砂と・・・とは意味は異なりますが、人間の本性なのでしょうか。まして時代の変化は人間の能力を大きく超える事態になっているわけですから、ちょっとそういったことに意識が働く人は余計、心配の種が多様化・増大するかもしれません。
平井氏は、修業時代の師匠・<山本玄峰老師は常々、こういっておられたそうです。
「心配はしてはいけない。心配りはしなくちゃいけない」>とその言葉を援用します。
これはある種の発想の転換でしょうか。禅の本質なのでしょうか。
<「心配」するといのは心が受け身の姿勢です。悩みや不安などがあって、心に負担がかかっているということでしょう。心が受け身だから、悩みに苛まされたり、不安におおのいたりするのです。>さて心の受け身とは何でしょうね。
そのことに立ち入らず、<これに対して心配りは、心を何かに配っていくわけですから、自分からの働きかけです。
両者は決定的にちがいます。>というのです。
そう、心の働き方に着目するのですね。そういえば、私も昔はなんども100人単位とか、場合によっては1000人単位の聴衆の前で話したことがありますが、当初は不安ばかりで心配もありましたが、聴衆がなにを期待していて、それにどう応えるかなどに気持ちを配っていると、それに集中していて、不安とか心配が遠のいていった経験がありました。
最後に平井氏は、<しっかり「心配り」をしたら、「心配」の大半は消えてしまう。「心配り」をしないから、「心配」がふくれ上がるのです。玄峰老師の言葉を胸にしまっておいて、心配になったら、いつでも取り出してください。>と結びます。
そう、私も心がけたいですね。心配の源泉を追求するのも一つですが、「心配り」という積極的な活動にはなにか他人や他の生命体への能動的な働きかけ、自分という不可思議な存在を少しは現実化できる、きっかけになりそうです。
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