私の町 吉備津

藤井高尚って知っている??今、彼の著書[歌のしるべ]を紹介しております。

おせん 75  盆踊りの声

2008-07-15 20:28:08 | Weblog
 梅雨も明けて、平蔵が、やけに日焼けして、伊予の国から無事に帰って来ました。故里の備中宮内の話など久しぶりに聞く平蔵の話にあの懐かしいおにぎり山が、目の前にちらりほらりと散る桜の花びらのように現れては消え又現れるのでした。そんなこともあってか、しばらくお園は、心に掛かってはいましたが、何やかにや自分の家の事に追い回され、つい、おせんのことは忘れがちになります。
 立秋が過ぎたとはいえ、じっとしていても体から汗が噴出す真夏の暑さが数日続きます。盆踊りの太鼓の音でしょうか花火の上がる音と共に、暮れなずむ大坂の空の中から聞こえてきます。平蔵はまだ戻ってきません。お店の忙しさは以前から聞いています。亥の刻も過ぎ「今日もまた忙しいのしら。体大丈夫かしら」と、ぼんやりと思っていました。そこに、平蔵が大旦那様と共に戻ってまいられたのだす。
 「そこで、平さんと、ちょっと一杯引っ掛けておって遅うなってしもうた」
 と、大旦那様。
 何時もの通り、上がり框に腰を下ろされて
 「あの時、お園さんが言われたように、おせんのことで色々と人を遣っても調べてみました。難しゅうおました。ようわからんのどすが」
 深いため息を一息きおつになられお話になられました。平蔵も土間にお園と立ったままで、大旦那様の話に聞き入ります。まだ。お園は平蔵にもおせんのことについては話してはいませんでした。
 袋の先生にも、松の葉の女将にも逢って話しを聞きました。大坂城代の町奉行所の中野某についても調べてみました。勿論、銀児親分についても。でも、何も証拠となるものはおません。代官所の中にある密室のような所で密かに行われて誰も知らないと言う。
 「おせんが、山越会で、お琴を弾く日の、まだ、日が昇る前だったと言っておますが、そんな朝早よう、桜が満開の山崎の堤辺りで、何か大きな捕り物が派手派手しくおましたと、言う事だけは調べて分りました。それが政之輔さんの死と関係があるかどうかは分りまへんが・・・・・その後、政之輔と言う若い医師が変死して、その遺体が袋医療所に引き取られていったという事実だけを残して、後は何にも分りしまへン。八方手を尽くしみたのどすがわかりまへんのどす。残念どすが。・・・・銀児とかと言った親分と、特に、深く関わっている事は間違いおまへんが、調べようがおまへん。残念でおますが。この銀児と言うのは相当な悪玉だと噂されているようどす。相当なあこぎな親分と言う意味の「あこぎん」と、初めのうちはあだ名されていましたが、今では誰も、あこぎんと言わないで「あくぎん」「あくぎん」と呼んでいるようどす」
 
 

おせん 74 七夕

2008-07-14 08:13:47 | Weblog
 七夕です。
 晴れたかと思うと急に大粒の雨も降り出す生憎の雨模様でした。宋源寺に着いた時はおせんと政之輔が始めて出会った時と同じようなざあざあ降りの雨です。そんな雨の中、山門の下でおせんは無言で、そっといかつい顔の仁王様に目をやりながら蛇の目の傘を閉じ、先のほうに持ち返ると、ちょっと雫を払います。そのおせんの初々しい美しさは、あたかも歌麿の絵の中から、たった今、飛び出してきたのではないかとさえ思われるほどでした。雨だれと山門と仁王と比べながら見とれるようにお園は見ていました。
 「どうぞ、仁王様、しかり守ってあげてください。こんなにかわいらしいおせんさんを」
 と、心の中で手を合わせるのでした。
 ひとしきり降り続いた俄な雨も、漸く峠を越えます。何にも言わないでただ屋根からおちてくる雨だれが軒下にある石を穿っている方を物悲しそうにただ見つめていたおせんは、その雨だれがまばらになって落ち出したのを確かめるかように、手を翳しながら
 「かわいそうな織姫様・・・・・行きまひょ」
 と。まだ降り残しているかのように、大儀そうにそぼ降る雨空の下に傘も差さずに手に持ったまま歩きだします。
 何時までたっても離れがたい未練があるには違いないのですが、それを振り切るようにやや大またで歩き去っていくのでした。半町ほど歩いたでしょうか、乙女の未練でしょうか、それでも、ちょっとだけ後ろを振り返りました。それから、そのままずんずんと二度と後ろを振り返らないで歩いていきます。
 やがて、ぶそんに着きます。「まあ、何日ぶりでっしゃろ」とか何とか言う亭主に導かれて小座敷に着き、夏の水羊羹を美味しく頂きます。そこでもおせんは相変わらず物静かに
 「おいしゅうおますやろ。夏はこれに限ります。大好きやねん」
 と言う、おせんの連理の枝の七月七日はこのようにして過ぎていきました。
 心に秘めている政之輔恋しいと言う思いを、懸命に何か他のものに変えようとしているおせんの姿に、お園は何か側にいるだけで、いてもたっても居られないやるせなさがこみ上げてきます。
 心にある深い傷口が何時になったら閉じてしまうのでしょう。どうしたらその心を癒してあげることができるのでしょう。
 おせんにとっても、また、お園にとっても、そんなうら悲しさが胸の中を行き来今年の七夕でした。
 その日から、又、おせんは自分の部屋に籠りっきりの日々が続きました。

目覚める!造山古墳

2008-07-13 13:20:35 | Weblog
 10時から、高松公民館で岡山大学の新納 泉教授の講演がありました。
 平成17年から19年まで、新庄上にある造山古墳のデジタル測量による実測計測が行われ、その報告を兼ねた講演会でした。2時間たっぷりお使いになって調査の全貌をお知らせくださったのです。
 10㎝間隔の等高線を引いて、従来には無かったより正確な古墳の全貌か明らかになり、今までは知られてなかった風雨による古墳の崩れた部分とか中世の山城として利用された跡とかの数々の新しい事実が、この実測によって明らかになったそうです。
 また、「造山古墳を中心とした吉備地方の古墳」が世界遺産に登録されればともお話になっていました。
 まだまだ、この古墳については不明な点が多くあり、それらの全貌に向けて将来に渡って長期的展望にたった研究が必要であり、それの向けて自分も努力するがもっともっと地域の協力がなければならないとも力強く話されていました。
 こんな歴史教室も、わが町では開かれ、用意した座席が足らないぐらいの大勢の町民が参加していました。

 なお、造山古墳は日本全体から見ると4番目の大きさを誇る古墳です。でも、時代的に見ると、5世紀のはじめ頃の築造で、3番目の履中天皇陵とほぼ同時代に作られ、その当時としては、それまでの日本最大の古墳であったと言われる(履中陵365m、造山古墳360m、1位(仁徳)、2位(応神)の古墳はこの二つの古墳より半世紀ぐらい後に出来たのだそうです)。そんな畿内の天皇勢力と拮抗する力を、当時の吉備の国の大王は持っていたと思われます。

おせん 73   洗心洞箚記

2008-07-12 10:35:28 | Weblog
 大旦那様は
 「これからも色々おせんの相談相手になってや」
 と、お帰りになられました。
 それから季節も少しずつ替わり緑が一層濃くなり雨の季節に入り、ツバメ達も忙しく舞い飛んでいます。時々、お園の方からおせの部屋を尋ねて、世間話し相手になります。
 親しかった里恵たちからは何も連絡はありません。相変わらずおせんは家から外に出ることはなかったのですが、気が向いた時は、お琴を出して弾いています。それで自分の中にある政之輔から懸命に逃げ切ろうとしているかのように、強く激しく、早く、又、ゆっくりと琴の弦を爪弾いています。そんなおせんの琴の音色を聞くたびに、お園は我ことのように、「かわいそうなおせんさん」と気が滅入ります。
 「近いうちに戻ります。帰りに立見屋に寄ってから」という、平蔵の伊予からの知らせがあった日に、「どうしてもお会いしたい」という、おせんからの使いの者の伝言がありました。とりあえず舟木屋に駆けつけます。
 「明日は七夕さんよって、お園さん、うちにちょっとつきあってくれしまへんやろか」
 宋源寺にお参りして、ついでに、本当に久しぶりで「ぶそん」にも立ち寄って、もう梅が宿は作ってはないと思うのだが、
 「今頃は、水羊羹の美味しいのがおますよって、それが食べとうおます」
 と、にこやかに普通に言いのけます。
 宋源寺の山門は、去年の夏の夕立の時に、政之輔と出会った思い出の場所です。また、七夕は、玄宗皇帝と楊貴妃の連理の枝の故事に因んんで、最初に政之輔とおせんを結び付けてくれた思い出の日なのです。
 それから、おせんは、ここにこんなご本がありますが、なんと書いてあるのかさっぱりわかりません。誰かに教えてもらいたいのだが、
 「お園さん教えてくれはらしまへんか」
 おせんはそういって戸袋の中い置いてある風呂敷包みを大事そうに取り出します。あの政之輔から預かっていた「洗心洞箚記」です。
 「まあとんでもございません。わたしなんかが分るはずもありません。大旦那様にご相談したらいかかですか」
 それが、大旦那様とおせんの絆が今よりもより一層深くなるのではないかとも思いながら言います。
 それからしばらく、明日着る着物のことや紅白粉のことなど話が弾みます。およしさんは最後まで顔は覗けませんでした。家中みんなして、おせんを腫れ物にでも触るようじっと大切に見つめていると言うことが痛いほど分ります。自分の時も義母を始め、みんなで大切に見つめていていてくれたのかと思うと、涙が自然に零れてきます。

おせんの七夕の思い出

2008-07-11 16:57:10 | Weblog
 愛しい香屋政輔こと袋政之輔が、幕府の官憲によって殺されたほんの10日ほど前におせんに歌ってくれた、 
  七月七日長生殿
  夜半 人無く 私語の時
  天に在りては願わくは作らん比翼の鳥
  地に在りては願わくは為らん連理の枝
  天地地久 時有りて尽く
  この恨みは綿々として尽くる期無し
 という、白居易の長恨歌の中の「連理の枝」と言う言葉が、おせんにとって何時までたっても忘れる事が出来ない七月七日の思い出です。
 
 

おせん  72 乙女の心

2008-07-10 14:46:56 | Weblog
 「家のこともありますから」と、おせんと一緒に、千代の用意してくれた朝ごはなんを頂き自分の家に帰ります。
 舟木屋の勝手口を出ても、まだ、おせんが母親に給仕してもらいながら美味しそうに食べていた姿が浮んできますが、それこそ「よろしゅうおました」と言う晴れ晴れしい気分にもなれず、お園は、何かはっきりしないもやもやとした気分が家に帰っても付き纏いますです。
 「どうして殺されたのだろう。かわいそうなおせんさんですこと。何かおせんさんを助けて上げられるいい方法はないかしら」
 という思いが、胸の中を行き来しています。そんな思いを、一時でも、消し去ろうように家中を、それこそ何回も何回も、掃除するのでした。
 姉さん被りの手拭を取り額の汗を拭った所に
 「お園さん。ゆうべはえろうすまなんだな。おかげはんで、家中が安堵しておますねん。おおきに・・・・・あんまり性急で、あ園さんに嫌われるのじゃないかと迷いながらこさせてもらいました。・・・で、どうでおした。聞かしてまらえまへんやろか。おせんのことを」
 何時ものように、お茶はいらんからと、上り框に腰を下ろします。
 お園はその場に座りながら、座布団を進めながら、
 「こんなことおせんさんに断ってでないとお話しすることは出来ないのではと思うのですが」
 と、断りを言ってから、自分が昨夜から長いことかかって聞いたおせんの物語を、時には涙を浮かべながら、大旦那様に話すのでした。お園の語りが流れるように、余りにもおせんの直の悲しみを載せたように大旦那様の耳に届いたのですしょうか、ある時は懸命に涙を堪えているかのように顔を上にしたり、又ある時は眉間にめちゃくちゃにしわを寄せられたり、目を瞑られたりしながらお聞きになっていいらっしゃいました。
 「こんなことを申し上げていのかどうかは分らないのですが、・・・・まだ、おせんさんの心は閉じたままです。やっと開きかけた桜の花びらと同じぐらいに、今、いらったらそれこそ直ぐに落ちてしまいそうです。どうぞ、もうしばらくあのままにしておいて、そっと見つめてあげて欲しいのです。舟木屋みんさんで。・・・おせんさんの受けられた大きな大きな心の痛手は他のものには、例え、失礼ですが大旦那様にも、本当の所はお分かりできないのではと思います。18の乙女にしか分らない痛みなのです。おせんさんにしか分らない痛みなのです。分らないものがとやかく言っても決したおせんさんは納得したりはしません。自分でその納得する道を見つけるしか方法はないように思えます。吉備津様にもお分かりいただけないと思います。しばらくそのままにしておいてあげて下さい。その道はいつかきっとご自分でお見つけになられるとおもいます。もし、できるなら、大旦那様。あの政之輔さまと言うお方が、なぜ殺されたのかお分かりになるようだったらお調べ願えたらと思うのですが。よくは分らないのですが、それがおせんさんの立ち直りに何か助けにはなるのではないかと私は思いますが・・」

おせん 71   楓の緑

2008-07-09 21:49:20 | Weblog
 母の一滴の涙がおせんの深い眠りを覚まします。
 「かかさん」
 「おせん」
 しばらくの間、二人は固く抱き合ったままでした。
 そんな二人をおいて、そっと、お園は部屋を出て濡縁に腰をおろし、皐月のまばゆい朝日をいっぱいに浴びて、昨夜からの雨に濡れた透き通るように輝く楓の若葉の新緑を魅入るように眺めています。
 故里のお山もきっと、今、ここの緑と同じようにきれいだろうな。一段とさやけき音を響かせながら流れくだっているだろう細谷川の水も、初々しい緑の中を流れれいるだろうと思いながら眺めていました。ふと、平蔵さんは今何しているだろうかなと言う思いも心を掠めます。
 「おせんさん、これで立ち直れる?お園さん助けてあげられる?」
 楓の緑からこんな声が聞こえてきました
 今は、ただ、おせんの心の苦しみが分っただけです。まだ、何も解決してはいないのです。「どうしたら」と、この緑から、しきりに、お園に問いかけています。
 「私にはできっこないわ。おせんさんどうする」
 心の中で、同じ問答を繰り返すのですが、何時までたってもお園には埒が開きません。
 楓の葉の隙間からさっと一条の日の光がお園の体に包みます。
 「お園さん」
 と、呼ぶ御寮ンさんの声が届きます。急いで部屋に引き返します。
 「おせんが御飯食べたいと言うの。久しぶりです。あさごはん運ぶさかい、一緒に食べておくれやす」
 およしは、「何が一晩の内に、わが娘おせんにあったのか」それを、まず初めに聞きたいと思うのはやまやまですが、「朝ごはんを」と、言った娘のために、母親の鋭い母性的な感覚として、今、しなければならないことは「これだ」と、強く思うのでした。
 「今、お食事、ここに運ばせるよって、お園さん、おせんと一緒に食べておくれやす」
 おせんも「食べて」としきりに勧めます。
 「何処へ行きはってたのどす」
 と、おせん。
 「日に照らされていた楓の緑が余りにもきれいだったのでしばらく見ほれていました。」
 「おせんも見てみとうおす。かかさん、そこの障子開けて・・・」
 およしの開けた障子からお日様と一緒に緑も燦燦と部屋の中に入ってきます。
 おせんは、さも珍しいものでもあるかのように、しばらく行く筋にもなった流れ来る光と色の織り成す部屋の景色を楽しんでいました。じっと籠りきりになっていた者にしか味わえない光景でした。

おせん 70 母の胸

2008-07-08 18:35:24 | Weblog
 ホトトギスが、楓の枝を通り抜けて朝の光の中を、けたたましく鳴き響んでいます。
 昨夜、遅くまで灯かり点いていたようだったおせんの部屋からは、初々しい初夏の朝光を浴びながら静かに物音一つ聞こえてきません。その余りにの静かさに母親のおよしはなんだか少々胸騒ぎを覚えます。
 「呼ぶまで来んといてな」
 という、おせんの言葉でしたが、今朝は、お園も一緒にいるのだからと、急いで部屋の戸を開けます。
 と、そこには、おせんとお園とが重なり合うように倒れている姿が目に飛び込んできました。
 「おせん」
 大声を張り上げながらに、部屋の中に飛び込んでいきます。
 その声で、はっと我に返ったのがお園です。おせんを抱きかかえるようにして眠ってしまっていたのです。
 「昨夜、急に、おせんさんが私に寄りかかるように眠られてしまったものですから、そのまま私もつい眠ってしまったのです。・・・御寮ンさん、ちょっと見てください。こんなに安らかに眠っておられます。おせんさんが。なんって可愛らしいお顔でしょう。一人では支えきれないほどの大きい悩みを持ちながら、誰にも言わずに自分ひとりで今日まで懸命に戦ってこられたのです」 
 まだ眠りこけているおせんを抱いたまま、およしに語りかけます。
 「お園さんがおせんを抱いて寝てくださったのどすか。まだ、よく眠っているようだす。お園さん、わてと代わってくれはりゃせんやろか。おせんが、今まで何か一人で悩んでいたのはわかっておったのどすが。何かわからんで・・・うちじゅうの者が皆で、御飯も喉も通らないほど心配しおっておったのどす。でもどうしてやることも出来しまへン。ただじっと見ているだけでおした、母親としてつろうおましたけど、どうしようもおまへんでした、じっとみるだけでおした」
 と言うと、目にいっぱい涙をため、お園にかわって、おせんを抱きかかえます。おせんは、まだ、よほど疲れきっていたのでしょう、お園と母親のおよしが入れ替わったのも分らないのか、まだ昏々と安心しきったように眠ったままです。
 おせんを抱いたまま、およしが、
 「何年振りでしゃろ。おせんをこの腕の中に抱けるなんて。どうして何んにも言ってくれなかったのでしゃろか、私もこの子の母親でおす。どうして・・・」
 涙が滝のように滴り落ちます。その涙の一滴が抱いているおせんの頬に落ちました。

シチセキ

2008-07-07 21:35:51 | Weblog
 ヒチセキというと何を思われますか。そうです。七夕様です。  
 この七夕様の伝説が日本に入ってきたのは奈良に都があった頃だといわれています。最初は「ヒチセキ」と言われていたのだそうですが、どうも江戸の頃から「たなばた」と一般に呼ばれるようになったのではないかということです。 
 気巧奠(きこうでん)とも呼ばれていたようです。気巧とは、巧みにならんことをこいねがうという意味だそうです。織姫のように裁縫が上手になりますようにとか、手習いが上手になりますようにお祈りする祭りでもあったのです。  
 私の子供の頃は、朝早く起きて、サトイモの葉の上に溜まった夜露を集めて墨をすり色とりどりの短冊に字を書いて、笹の葉に吊るしていたことを思い出しました。 
 農家の藁屋根の家ですから深い軒端に、五色の短冊をつけた笹を2本立て、それに差し渡した竹の棒に、瓜・玉蜀黍・栗のいが・ほうずき・ささげなどを吊り下げ、キュウリで馬を、茄子で牛を、茗荷で鶏を造りお供えしたのを覚えています。   
 もう今ではこんな奠(おまつり)はお目にかかるのも珍しくなりました。でも、吉備津神社では、今年は。お屋根替えの行事が忙しいのかやっていませんでしたが、昨年まではただお飾りとして立ててはいました。ちなみに、吉備津彦神社では参拝者が願い事を書いた短冊を竹に吊るしておいていました。一般家庭では見ることは少なくなりました。  ちなみに、わが吉備地方の「たなばたさま」は、一月後れの8月7日に行う家庭が多かったように思います。    

 蛇足; 
 この「たなばたまつり」については、かの藤井高尚先生は、神社が行うことはよくないと「松の落葉」に書かれていす。そのわけは、中国の祭りをよりによって日本の神社でやることはない、とお書きになっておられます。(昨年の七月七日の記事参照)  

おせん 69  ただ、ねむる

2008-07-06 17:25:38 | Weblog
 「おえん のでしゃろか」
 一瞬、おせんの唇がほころびたようでした。それから大きく一息ついて、
 「どうして殺されなければいけへんかったのでしゃろ。そのわけを知りとうおます。でけしまへんやろけど。強うはおまへんから」
 「おせんさん。ひとりでは強うはなれません。でも、一人より二人、二人より三人でやると、一人より強うなれるのではないでしょうか。私は力にも何もならないとは思いますが。一緒に考えて見ましょ。おせんさん一緒に。少しは強くなれるのではないでしょうか」
 「わてが強いのか弱いのか分りしまへんけど、お園さん。わての話しはこれでおしまいだす。聞いてもろうて、なんだか体の中におました重石がとれて、スーと軽うなったようでおます。なんだかとてもねむうおます」
 と言うと、今までのたまりに溜まっていた眠りの世界の中に、欲も得もなく一気に落ち込むように、横なるとそのまま眠ってしまいました。
 「しっかりねむりなさいな、おせんさん。女が一人で悲しみにじっと耐えてきたのですもの」
 お園は眠ってしまったおせんの体を愛しむように抱きかかえながら背中をゆっくりとさすってやりました。
 眠ったからといって、それでおせんの悲しみが完全に消え去っていく事は決してないのですが、それでも、このおせんの眠りは、一時、堪えに堪えていたこれまでの悲しさを忘却の彼方に押しやる事だけは確かです。
 背中をさすりながら、おせんが眠りから覚めたなら、又、何かきっといい解決の糸口がつかめるのではないかと思いました。私には、いつも「吉備津の神様」がついていて下さるのですから、きっと守ってくれます。そして、いい智慧もきっとお貸しくださるものと、強く思いました。
 そして、今日知ったおせんの事をどう、大旦那さんや旦那さんに、御寮ンさんには話したらよいのか、それから・・・と、心の内にあれやこれやと思いを巡らせていくうちに、お園もいつしか知らないうちに、おせんに覆いかぶさるように眠りの谷間に落ち込んでいきました。その眠りは平蔵も誰もお園の眠りを妨げる者はいませんでした。

おせん 68 吉備の言葉「おえん」

2008-07-05 12:23:29 | Weblog
 この時、茲三郎は、にわかに思いついたことがありました。
 年恰好も似かよっている、平蔵の妻お園に、留守の間、心も身体も衰弱しきって、一歩も外にも出ようともしないおせんの話し相手になってもらったら、ひょっとしてと、いう思いが突如として胸に浮んでくるのでした。
 部屋に籠りっきりで、あれ以来お琴のお稽古にも、何やかやと気を揉んでくれている里恵やお慶に対してすら、逢おうとはしません。まして「梅が宿」などは、話の端に出るだけで、目にいっぱいの涙をうかべて、余計に自分の中に閉じこもるだけでした。「大丈夫、元気出して」「これ食べて」と涙声で、あれ以来、そんな言葉しかない母親とばあやのお千代だけしか寄せ付けません。
 春暮れてのちに夏が来るのではなく、春がやがて夏の気を催すように多くの因果な関係が生まれる中からある偶然が生まれるのです。茲三郎のおせんを一心に思う心が、その偶然と重なり合って、お園とおせんを結びつけるのでした。
 お園と平蔵もこの偶然によって結ばれたのです。伊予行きを決めた舟木屋の相談も、又、その偶然です。お園が、かって「女の恥です」「宿世です」と、茲三郎に毅然として言い放ったのも、また、この偶然なのです。おせんを取り巻く多くの人たちのいろいるな偶然が積み重なって、それが雨の短じか夜の長い話になったのです。
 短夜も白々と明けて来たのか障子にうつろほのかな朝の淡い光がおせんの顔を照らしています。そこには、もう、涙はありませんでした。話し終えたおせんは、お園の顔をこれもまたじっと見つめているだけでした。しばらく、二人の間をあるかないかのような色も何も付いていない光の帯が通り過ぎていました。
 「女は損でしょうか。でも、強いのも・・・・・・」
 ぽそりと流れる光と同じようにお園。おせんは黙っていましたが、
 「強い。強いでしゃろか」
 「私にもよく分らないのですが、今まで、おせんさんのお話聞かせていただいて、強くなければおえん。・・・・あら、ごめんなさい。おえんというのは、私の里の言葉で、だめですという意味です。ただ、そんな風に思ったのです。おせんさんのお話の一番最初にお聞きした、決して死にはしませんと、きっぱりと言われた意味がはっきりと分りました。損かどうかは分りませんが、おせんさんは強いと思います。そんな悲しさとも、誰にも相談しないで今まで戦ってこられました。おそらくこれからも戦いは終わらないと思います。そんな時こそ、女が強うならなんだらおえんのじゃないでしょうか」
 

おせん 67  鯉幟の五月の空

2008-07-04 20:48:08 | Weblog
 目に入れても痛くないの例え通りの可愛い孫娘です。茲三郎の心配は一通りのものではありません。ぐったりと床に横たわっているおせんに、
 「おせんどうした。何がおました。どうにかするさかい話しておくれ」
 身をかがめて覆いかぶさるように問いかけますが、おせんの耳には届いていないようでした。ただ、黙って、目にいっぱい涙をためて、そこには祖父も父母もないように、うつろな視点のない目を天井に投げかけています。
 「おとうはん、どうぞ、今、おせんと二人っきりにしくれはらしまへんやろか」
 と、言うおよし。そっと男達二人は、部屋から、心をいっぱいにおせんに残しながら離れます。
 今日、昼過ぎに、おせんが、急に、店をあわただしく飛び出したことは分っていますが、その後何がおせんにあったかは誰も知りません。何処かで誰かに会って、そもで何かあったのかは店の者も誰も知りません。まして、松の葉の女将ゆきなどといった人には想像もつきません。
 おせんは無言のままです。食事も殆ど喉を通りません。お医者様を迎えるのですが用として原因はつかめません。何せおせんが一言もあれ以来、口を聞かないのですから。
 その日、誰かの誘いがあって出かけたまではわかっています。誰に会ったのか四方八方、手を尽くして捜すのですが、皆目、見当すら立ちません。日にちだけがむなしく、ただ、過ぎていきます。母親の悲歎も辺りの人々を余計に悲しませるのでした。おせんも相変わらず食べ物も喉を通らず瘠せていくばかりです。母親の懸命な介護にも拘らずおせんは弱まっていくばかりでした。
 それから、しばらくたって、鯉幟が勢いようく五月の空をあちらこちらに泳ぎだしました。今年、平蔵たちの忙しく立ち回る時期になりました。今年から新しく開拓した伊予や讃岐を含めた綿の買い付けに誰を遣るか大旦那を交えて舟木屋でも人選が始まっています。結局、新しい伊予には大旦那のお供をした平蔵を、備中などの経験を考えて、派遣する事に、
 「新婚はんだが、きばってもらいまひょう」
 と、決まります。
 大旦那茲三郎の胸の内に、この時になって、今までは考え付かなかったのですが「ひょっとして」と、ある考えが突如と浮んできました。

あせん  66  おせんの悲歎

2008-07-03 09:25:52 | Weblog
 袋老医師から聞いたというゆきの話を、幾度ともなくいやいやをしながら、とめどなく流れ落ちる涙と一緒になって一心に聞き入っていました。納得がいかないのは無理はありません。「どうして」という言葉さへ何処かに忘れ去ってしまったかのように、ただ、ゆきの話す言葉の中の政之輔の姿を追い求めていくように聞き入るのです。涙が後から後から頬を伝わります。ゆきはそのおせんの涙を見ると、余計に辛く心がえぐられ壊れてしまうようでもありました。
 長いゆきの話を聞き終わると、おせんはその場にばたりと泣き伏します。その肩にそっと手をおいて、何も言わないで黙って、ゆきはおせんと一緒に涙を流していました。
 又、しばらくどうしようもない空しい時が立ち込めます。お店の中から聞こえてくる人の足音などからも、ようやくあたりも夕方近くなっている気配を伝えています。
 「一人で帰りますよって」と、言うおせんでしたが、ゆきが店の者を付けてくれて、舟木屋の前まで送ってくれました。
 舟木屋では心配していた母親のおよしが出迎えます。
 おせんの体を抱くようにして部屋に入ります。それなり、何も言わないで、倒れ込むように床に横たわります。「今日、一日何があったのか」と聞いても、おせんは何も答えてもくれません。どこへ行っていたのかすらわかりません。
 「どうしなはったおせん。おせんに、何処で何が起こったのどすか。どうしなはったの。元気出してえなー」と、必死になって母親のおよしは、おせんに体ごとぶつかるように、何度も何度も、問いかけます。でも、その母の声さえ届かないのか、黙ってうつろな目をして、唯、天井の辺りを眺めているだけです。
 なぜこうなったのか皆目、見当すらたちません。何もしゃべらないのですから。母親が抱き起こしても、母親の為すがままに、ただ、お人形さんのように自分の身体を動かすだけです。自分が何者だあるかすら、自分自身にも分らないようです。
 「どうしたの。おせん。頼むさかい返事してえなー」
 悲痛なおよしの叫びが部屋から家中に流れます聞こえます。
 その声を聞いたのか、父親の徳太郎も駆けつけ、おせんを周りから、唯、見つめ、おろおろとしているだけです。
 祖父の茲三郎もやや遅れてやってきます。
 「どうしたおせん。どうして急に、ううむ」
 と、言って、心配顔でおせんを覗き込みます。

おせん 65

2008-07-02 08:33:18 | Weblog
「そなんことあるはずおえん」と、おせんは必死にゆきの胸にすがりつきながら空っぽのあるかないか分らないような忍び声で呟くように言います。
 「おせんさん、しっかりして」という、ゆきの声も心には届いてはいません。頭の中はぐるぐるとなにか大きな、かって政之輔から聞いた渦のようなものの中に体ごと吸い込まれて、奈落のそこに落ちていくようです。
 「政之輔さまがおせんをほっといて何処かへ行きはることはおへん」
 懸命に何かを掴もうとしているのですが。自分も渦の中に引きずり込まれてぐるぐると夢の中で廻っているように思われるのでした。
 ゆきが何回目かの「しかりして」と、抱いているおせんの背を揺するようにとんとんと数回叩きます。それでも、おせんはうつろに目を半眼に見開いて、意識はもうろうとして力なく、ただ、ゆきの腕の中に横たわっているだけです。
 「おのぶさん、来てー」
 と、奥に助けを呼びます。その声とおせんを抱きかかえている体を引くようにした小さな動きがおせんの意識を、ふっと元に呼び返しました。
 「すいません」と、まだ、うつろの目をしながらでも、おゆきの手の中から離れ一人でようやく心もとなく座ります。目からはいっぱい涙が行く筋も行く筋も、おせんの心を洗い流すかのように零れ落ちて来ます。
 「政之輔さまは、本当にもう、おせんの元には戻ってこないのでしゃろか。どうしてでっしゃろ」
 その声はこの世のものとは思えない悲語の響きがありました。
 ゆきは何も言わないで、再び、しかりとおせんを抱きしめまます。そして、涙といっしょに、これも、また、声にも何もならないような「ううー」とでも表現してもいいかと思われる声が、ゆきの体を伝わっておせんに伝わっていきました。
 どれだけ時間がたったでしょうか。おせんにもゆきにも、それはそれは大変に長い時間のように感じられました。
 お店からでしょうか、「がちゃん」というけたたましい茶碗か何かが割れたような音が響きます。その響きに、おせんは、再び、はっとしたようにゆきの腕から退いて一人で座ります。
 「すいません。おかみさん」
 消え入るそうなおせんの声。一筋の涙がおせんの頬を這うように長く流れました。
 ゆきの目からも涙が頬を伝わり落ちてきました。
 「できることなら、話さんでおきとうおます。悲しいけど・・・・こんな話しとうおまへんねやけど、お話しせにゃならんのどす。おせんさんに」

おーしー

2008-07-01 21:07:53 | Weblog
 「おーおー」という神主の言葉によって「夏越払」の行事が始まり、そして、終わるのですが、この「おーおー」というのは何時頃から始まったかというと色々な説があり、これといった定説はないのだそうです。
 ただ、清少納言の枕草子を読んでいますと、次のような記述に出くわします。
 その二十段「清涼殿の丑寅の角の、北のへだてなる御障子は、荒海の絵」に、
 “警蹕(けいひち)など「おーしー」という声きこゆるも、うらうらとのどかなる日のけしきなど、いみじうおかし”とあります。
 この「おーしー」というののが、現代も使われている神事の際の「おーおー」に変化したものではないかともいわれています。

 警蹕(けいひち)とは=天皇の出入りやそのお食事時、貴人の通行、神事の時などに声をかけて人々を静めいましめ、先をはらうこと。下を向いて「おお、しし、おし」または「おー、おー」といったと、古語辞典ありました。

 1000年も昔から、平安京の、都の公家の日常の生活に取り入れられていたのは、この枕草子からも分ります。そんな生活の一部が現代の社会でも見えるということは素晴しいことではないかと思われます。
 今、行われている神事の一つ一つにも、決して偶然ではない、それぞの歴史的ないわれがあり、歴史の重みが至る所で見られます。そんなことを思いながら神事に参加しました
 

 こんないわれを、若き神官は果たして知っているのでしょうか。一度聞いてみたいものだと思っています。