ブログの紹介文をすこしかえてみました。
以前の紹介文に「にわとりのように誇り高く生きていきたい」と書いていたのですが、ある大切なともだちが、「”誇り”って必要なものやろうか」とぽつんと言ってくれたことがこころに残っていて、それからずっと考えていました。
わたしは、生きていくうえで、”誇り”はとても大切なものだとおもっています。
あるいは、”自尊心”、”自分を大切にすること”といいかえたほうが、より近いかもしれません。
”誇り”や”自尊心”というと、なんだか自分のまわりに強固な自意識の壁をはりめぐらしているイメージがありますが、ほんとうは、”誇り”はそのような硬い壁や、きらびやかな勲章のようなものではなく、やわらかくて、あたたかくて、目に見えないけれどたしかにそこにあるもの、なのではないかとおもっています。
自分で自分を大切にすることは、とてもむずかしい。
だって、自分の姿を自分でみることはできなくて、誰かに優しくしてもらったり、愛されたりすることで、初めて自分の輪郭を確認できるのだとおもうからです。
だけど、いままでに「誰か」からもらった目に見えないものを大切にしていけたら、自分のなかに、そのひとに大切にしてもらった記憶のたねが息づいて、そこから育った草木や花が、わたしを見守ってくれるような気がするのです。
これから先、にわの風景のうつりかわりとともに、紹介文もかわっていくかもしれません。
今度とも、どうぞよろしくお願いいたします。
以前の紹介文に「にわとりのように誇り高く生きていきたい」と書いていたのですが、ある大切なともだちが、「”誇り”って必要なものやろうか」とぽつんと言ってくれたことがこころに残っていて、それからずっと考えていました。
わたしは、生きていくうえで、”誇り”はとても大切なものだとおもっています。
あるいは、”自尊心”、”自分を大切にすること”といいかえたほうが、より近いかもしれません。
”誇り”や”自尊心”というと、なんだか自分のまわりに強固な自意識の壁をはりめぐらしているイメージがありますが、ほんとうは、”誇り”はそのような硬い壁や、きらびやかな勲章のようなものではなく、やわらかくて、あたたかくて、目に見えないけれどたしかにそこにあるもの、なのではないかとおもっています。
自分で自分を大切にすることは、とてもむずかしい。
だって、自分の姿を自分でみることはできなくて、誰かに優しくしてもらったり、愛されたりすることで、初めて自分の輪郭を確認できるのだとおもうからです。
だけど、いままでに「誰か」からもらった目に見えないものを大切にしていけたら、自分のなかに、そのひとに大切にしてもらった記憶のたねが息づいて、そこから育った草木や花が、わたしを見守ってくれるような気がするのです。
これから先、にわの風景のうつりかわりとともに、紹介文もかわっていくかもしれません。
今度とも、どうぞよろしくお願いいたします。