矢野久美子『ハンナ・アーレント―「戦争の世紀」を生きた政治哲学者』(中公新書、2014年)
知りあいの先生がくださって、昨日から読み始めた。
もうすこしで読了する。
文庫本は、軽くて持ち歩きやすいので、ちょっとした空き時間に読み進められてありがたい。
ハンナ・アーレントは、1906年に生まれた政治哲学者で、
ドイツのユダヤ人家庭に生まれ、大学では哲学をハイデガーとヤスパースに学び、
1933年、ナチス支配下のドイツからパリに亡命。
第二次世界大戦勃発後、アメリカ合衆国に亡命し、哲学、政治的な問題について書き続けた。
大学時代、大学院時代を通して、
彼女の著作のいくつかはゼミの課題になったこともあって、
読んではいたけれど、
いまあらためてこの本を読むと
親しい友人だったベンヤミンが、ナチス支配下で自殺したことや、
亡命後のアメリカで、英語を一から学ばなければならなかったこと、
ユダヤ人を大量虐殺するためだけに作られた収容所の存在、
原爆の投下という出来事を見つめ、考え、言葉にし続けたことの痛みが伝わってくる。
「痛みが伝わってくる」という言い方は、
おこがましい気がして、
簡単に感情移入することはできるだけしないようにしようと思っているのだけれど、
文字通り、読んでいて痛みを覚えるような箇所が随所にあった。
大学時代から、亀のようなゆっくりペースで、
大の苦手だった歴史を学んできたなかで、
一番むずかしいと感じることは、
目を背けたくなるような過去の暗い出来事や、人間の醜い面を、
どのようにうけとめ、かかわり、考えていくのか、ということ。
ひとによって考え方は違うと思うが
(そしてそんなことは当たり前だという人も、そんなものは学問ではないという人もいるだろうが)、
歴史を記述するということは、
自分と向き合うことなしにはできない作業だと個人的には思っている。
カウンセラーがカウンセリングをする前に、自己分析を経た訓練をするように、
ある出来事や物語を記述する自分自身が、どのような考えの癖や偏見を持っているのかを
知ろうとする努力を並行して行うことが大切だと思う。
ただ「事実」を並べただけのように見える年表にも、
どの出来事を選ぶのか、
出来事をどのような名称で、どのような言葉で書くのか、
ある出来事がいつ始まり、いつ終わったと考えるのか、
といった細部に
書いた人の「まなざし」が書き込まれていると思うからだ。
大学院時代、植民地時代の日本の歴史についての論文を読むと、
気分が悪くなり、何も考えることができなくなることがよくあった。
それまでなにも知らずに生きてきた自分が、加害者であるように思い、
論文から責められているように感じていた。
いまでも、知ってしまってつらくなるような出来事や物語はたくさんあるけれど、
15年前に比べてすこし自分が変化したと感じるのは、
自分を加害者や被害者の立場に同一化して、苦しんだり、感情移入したりするのではなく、
距離をとりながら見ることが、すこしはできるようになってきたのではないかということだ。
いいかえれば、織りなされる関係性のなかで、自分のなかに、加害者にも被害者にもなりうる、
あるいは、どちらでもないいくつもの面を見ていくということでもある。
簡単に感情移入することも、誰かや何かを敵にしたてあげて、
「自分は違う」と思おうとすることも
思考の停止につながる。
だからといって、ほかのひとに「目を背けるな」と押しつけるのは違うと思っていて、
つながろうとしたうえで、いろいろな物語があることを受けとめて、
自分自身の頭で考えて、言葉を探していくことしかできないのではないかと思う。
ひきつけすぎたり、離れすぎたりを繰り返しながら
それでも、考えていくしかないのだろう。
「みんな同じ」
ではなくて、
「個」をほりさげたり、もてあましたりする迷走の過程で
違和感を紡ぐ、軋むような言葉たちをどこかで聴いてくれ、
言葉を返してくれる仲間がいるというのは、
ありがたいことだとも思う。
いいタイミングで出逢ってくれた本でした。