3月13日。木曜日。
ミヒャエル・エンデ博物館にて、
エドガーの画集やルイーデの絵を眺めて過ごす。
芳名帳には、日本から来た
たくさんのエンデファンが
その思いを日本語で綴っていた。
ボクも「来るべくして来ました」…と記した。
エンデの思索で感銘を受けたのは、
やはり
「根源からお金を問うこと」。
わかりやすく説明すると、
1.はじめは「モノ」と「モノ」の交換で暮らしていた。
⇒「パン」と「バナナ」を交換して、お互いが満足していた。
2.そこに「モノ」の価値を代用するものとして「お金」が生まれた。
⇒価値を定義する物差しとして「金」や「銀」が基準になった。
3.すべての価値を代用し、かつ風化しない「お金」は力を持ち出す。
⇒「バナナ」は腐るけど、「お金」は腐らない。
4.「お金」を蓄え、貸し出すことを商売として思いついた人間がいた。
⇒価値が不変だから、貸し出すことが可能になった。
5.貸し出す対価として「利子」を生み出し、儲けることに。
⇒「価値」を肩代わりする代わりに、手数料を払え…と。
6.モノの価値を代用する「お金」そのものが、商品となった。
⇒「お金」を預けると「利息」がつき、貸すと「利子」がついた。
この6が曲者で、
もともと対価の代用でしかなかった「お金」は、それだけで生産性はなく、
価値を生み出すことはできない。1000円はいつまでたっても1000円だ。
しかし、「お金」を商品として売り買い(貸し借り)することで、
「お金」にプラス手数料という価値が生まれてしまった。
「利息・利子」という名の手数料は、「お金」を借りた側の負担から生まれている。
債務者が生み出す価値である。もともとないはずの「価値」だ。
ここに問題が生じてくる。
「利子」はマイナスには転じない。ベクトルは常に上向きだ。
元金は、転がる雪だるまのように
どんどん利子にまみれ、大きくなる。
その増えた分は、債務者の手で生産しなければならない。
一方の債権者は、雪だるまが大きくなるように
資金を集める。「銀行」の始まりだ。
預ける側のメリットとして「利息」をつける。
「利息」を払うために「銀行」は債務者を急き立てる。
「お金」を商品にすることで「お金」が生まれている。
これはやっぱり、無理が生じてくる。
商品をつくって、その価値を対価として支払う仕組みから
「お金」そのものの「価値」を売買して「お金」を生み出す仕組みに。
…これが「資本主義」と呼ばれるもの。