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沖縄→東京→竹野と流転する、bozzoの日々。

【佐野眞一】津波と原発と第五福竜丸

2011-12-30 | UNITE!NIPPON
2011年は己の「無知」を思い知らされた1年だった。
特に原発開発に至る経緯は、気恥ずかしくなるような人間のエゴ、国のエゴが暗躍し、
戦後のしがらみは65年経った今でも蔓草のように絡まり、社会の根源を支えているという事実を
この震災で突きつけられた恰好となった。

その影の権力闘争にペン1本で果敢に闘ってきた佐野眞一さんの近著「津波と原発」は、
佐野さんの姿勢がそのままカタチになったような凄味のある内容なのだけど、なによりその真骨頂は、
プロ野球の父、テレビ放送の父、原子力発電の父と云われた正力松太郎とその影武者柴田秀利に対する論説。

佐野さんはこのふたりを「謀略説」の安易なカタチにつるし上げるのではなく、
時代背景を鑑みた冷徹な視点で「時代の申し子」と位置づける。

 正力は大衆が望むものしか興味がなかった。プロ野球もテレビも、そして原子力も
 大衆が望んだからこそ、この天才的プロモーターは力ずくで日本に導入して、根付かせた。
 正力松太郎が残した巨大な事業から、いま生きる私たちニッポン人が、一番学ばなければならないことは何か。
 それは、私たちがいまも正力の巨大な掌の上で安穏と暮らし、そこから抜け出す手がかりさえ持っていないことである。
 私たちは、正力が導入したテレビの中で展開される、正力がつくったプロ野球の試合を日々観戦し、
 正力がマンモス的メディアに仕立て上げた新聞でその結果を確認する毎日を送っている。
 それ以上に指摘しておきたいのは、私たちのその暮らしぶりが、正力が導入した原発から送られる電気によってまかなわれていることである。
 福島第一原発が今回引き起こした重大事故は、私たちがそうした巨大な正力の掌から脱することが出来るかどうかの試金石となっている。

                                         「津波と原発/佐野眞一著」 

写真は、江東区夢の島に展示されている「第五福竜丸」の焼津帰港の1954(昭和29)年3月14日の日捲りカレンダー。被爆により、周縁部が黒焦げている。
この被爆事実の大スクープを3月16日の紙面で行ったのが、正力率いる読売新聞なのであるのだけど、ここいらの時系列についても「津波と原発」では事細かに解説されている。

何より驚いたのが、翌年11月に日比谷公園で催された「原子力平和利用博覧会」なるものに「第五福竜丸」が展示された…という事実。
ビキニ環礁での水爆実験被爆からわずか7ヶ月。放射線量も落ち着かない船体をそのまま公衆の面前にさらし「毒をもって毒を制す」恰好で、
翌年にはイギリスから原子炉購入までコマを進めている。

そのスピードにも勿論驚いたのだけど、佐野さん曰く「大衆がそれを望んでいた」のだと思わせるような「第五福竜丸」平和利用博覧会展示の事実と、
その後、江東区夢の島に安置されるに至った経緯との、その扱われ方の違いに「大衆」の恐ろしさを思い知らされたからである。

夢の島を訪れれば分かるのだけれど、もともと粗大ゴミ堆積場であった江東区夢の島になぜ「第五福竜丸」の展示棟があるのか…。
正力松太郎の手によって「毒をもって毒を制す」その目玉となった1955年の博覧会展示後、船体は除染を施され、船名を変え、水産大学の練習船として働いた後、1967年廃船。
2年間「夢の島」第十五号埋立地に放置されているところを当時の東京都職員が見るに見かねて新聞投稿で訴え、保存運動の末に現在の場所に収まることとなったのである。

水爆被爆によって命を落とされた久保山愛吉さんといい、夢の島に放置された第五福竜丸といい、人影が絶えたまま静寂に包まれた福島「浜通り」といい、
私たち大衆が望んできた戦後繁栄の裏には、排斥された負の要素が常に存在してきた…。

この震災によってその不均衡が明るみに出た…というのに、時間と共にまたしても私たち大衆はその事実をなし崩しにしようとしていないか?
どうしてそう回避ばかりを促してしまうのか…。それがつまりは、私たちが望んでいるからに他ならない。

 我々は「無知」であること、常識は「成人までに身につけた偏見の集大成」であることを客観的に受け止めて、
 新たな視点で世の中を捉える努力を怠らないこと。
 情報とネットワークが過剰発達した2012年だからこそ、流されないプリンシプルな思考が試されている…と思う。



 









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【dec_25】陸前高田市

2011-12-30 | UNITE!NIPPON
車が陸前高田市に入ると、道路を迂回させられることが目立って増えてきた。
地図では市内を流れる川を越えた目と鼻の先が高田病院なのに、橋が落ちているため、
延々と遠回りしなければならなかった。
それでも何とか市の中心部に入ることができた。瓦礫だらけになった無人の市街地に入った瞬間、言葉を失った。
そこはさながら、爆風で何もかも吹き飛んだ広島の爆心地を数百倍に拡大したような死の街だった。
その被害状況は、阪神淡路大震災に直撃された神戸や、同時多発テロに襲われたニューヨークの比ではなかった。
あえていうなら、神戸やニューヨークにはまだ人間の体温のぬくもりがあった。
しかし、千年に一度といわれる三陸大災害を象徴する陸前高田の被災現場には、
熱もなければ声もなかった。津波がすべてを攫っていった後には、
人間の生きる気力を萎えさせ、言葉を無力化させる瓦礫の山しかなかった。
ここには人間が生きたという痕跡さえなかった。
     
                                   「津波と原発/佐野眞一著」

GWに歩いたこの土地は7ヶ月たったクリスマスの日も
瓦礫が堆く積まれたままの「熱もなければ声もな」い、
「人間の生きたという痕跡さえ」喪われたままの状態だった。

佐野眞一さんの「津波と原発」は、目からウロコの視点の逆転があり、ページをめくりながらなんども唸ってしまったのだが、
「竜宮伝説」の浦島太郎の話が、実は津波にあった漁師の話が元になっている…という仮説には大きく頷くほか無かった。

世に知られている浦島太郎の話は、

漁師の浦島太郎は、子供が亀をいじめているところに遭遇する。太郎が亀を助けると、亀は礼として太郎を竜宮城に連れて行く。
竜宮城では乙姫が太郎を歓待する。しばらくして太郎が帰る意思を伝えると、乙姫は「決して開けてはならない」としつつ玉手箱を渡す。
太郎が亀に連れられ浜に帰ると、太郎が知っている人は誰もいない。
太郎が玉手箱を開けると、中から煙が発生し、煙を浴びた太郎は老人の姿に変化する。
浦島太郎が竜宮城で過ごした日々は数日だったが、地上ではずいぶん長い年月が経っていた。…といったものだが、

これを津波の視点から見てみると、

沖合に船を出した漁師は、地震発生後の大津波を船の上で体感するのだけど、海の上では陸地を襲うほどの波の高さを感じない。
しかし海岸線では黒々とした海の壁が村を呑み込み、衣の裾をたぐり寄せるように沿岸の家々を根元から引き寄せ、村全体を消滅させていた。
漁から帰った漁師の目には忽然と消えたかつての村があった。その信じられない光景を見てたちまち白髪になり、発狂するのだった。

人間の体温はおろか声さえ根こそぎ奪い「人間の生きたという痕跡さえ」消失させてしまう「大海嘯」。
その恐ろしさを伝承したのが「竜宮伝説」ではないか…という新たな視点。

街全体が消失したここ陸前高田の被災地に再来して、その漁師が白髪になった感慨を思い知るのだった。

このことは決して忘れない。2012は、ここからはじめるのだ。

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【dec_24】岩手県遠野市

2011-12-30 | UNITE!NIPPON
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【dec_24】釜石市白浜地区

2011-12-30 | UNITE!NIPPON
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【dec_23】大槌町

2011-12-30 | UNITE!NIPPON
遠野まごころネットの「サンタ100人プロジェクト」にて大槌町へ。
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