【on_Flickr】1107_prisoner
「見ること」は常に「見るもの」の姿を白日のもととし、
「見られるもの」はいつでも相手を「見かえす」ことができる。
その意味で「見ること」と「見られること」はちょうど一対の関係として在り、
「見る」ことで、なにより最初に相手との関係を始動させる。
写真とはそういう行為である。
「見る」ことと「見られる」ことは相対化する。
だから記録としての写真は相補的なものとなる。
「写っている」のか「写されている」のか。
…被写体そのものと、…被写体の内奥と、…撮影者の思惑と。
そこに触媒として「空間」があり、「光」がある。
その三位一体が絶妙なポリフォニーを奏でるとき、
切り取られた【リアル】は、その背後に膨大な位相を表出する。
そもそも、わたしたちの【リアル】は、「豊か」なのだ。
あとは読み込む能力次第…ということになる。
その【リアル】を数値に置き換えて手中に収めようとするから、
ボロボロとこぼれ落ちるものが出てくるのだ。
人間至上主義の破綻。科学の限界。
無尽蔵なリテラシーは素晴らしいが、
手放しで【リアル】をまんま体感すること、の方が間違いなく【真実】だ。
Prisoner…囚われの身。
「束縛と解放」とは、もしかしたら、【リアル】そのもののことかもしれない。
有限として「全うする生」と、そこに内在する「膨大な位相に覚醒する生」と。
一面を見て「束縛」と取るか、多面に捉えて「解放」と取るか。
ダンサー羽太結子とのフォトセッションは
そんな「クラインの壺」が垣間見られるものとなった。
「見ること」は常に「見るもの」の姿を白日のもととし、
「見られるもの」はいつでも相手を「見かえす」ことができる。
その意味で「見ること」と「見られること」はちょうど一対の関係として在り、
「見る」ことで、なにより最初に相手との関係を始動させる。
写真とはそういう行為である。
「見る」ことと「見られる」ことは相対化する。
だから記録としての写真は相補的なものとなる。
「写っている」のか「写されている」のか。
…被写体そのものと、…被写体の内奥と、…撮影者の思惑と。
そこに触媒として「空間」があり、「光」がある。
その三位一体が絶妙なポリフォニーを奏でるとき、
切り取られた【リアル】は、その背後に膨大な位相を表出する。
そもそも、わたしたちの【リアル】は、「豊か」なのだ。
あとは読み込む能力次第…ということになる。
その【リアル】を数値に置き換えて手中に収めようとするから、
ボロボロとこぼれ落ちるものが出てくるのだ。
人間至上主義の破綻。科学の限界。
無尽蔵なリテラシーは素晴らしいが、
手放しで【リアル】をまんま体感すること、の方が間違いなく【真実】だ。
Prisoner…囚われの身。
「束縛と解放」とは、もしかしたら、【リアル】そのもののことかもしれない。
有限として「全うする生」と、そこに内在する「膨大な位相に覚醒する生」と。
一面を見て「束縛」と取るか、多面に捉えて「解放」と取るか。
ダンサー羽太結子とのフォトセッションは
そんな「クラインの壺」が垣間見られるものとなった。