「わたしたちに許された特別な時間の終わり」directed by 太田信吾@東中野ポレポレ座
ミュージシャンを志しながらも、志半ばで転がるように自らを死に追い込んでしまった友人、
増田壮太が残した遺言「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」に憑かれたように
この映画を完成させた太田信吾監督。
「わたしたちに許された特別な時間の終わり」というタイトルは、この映画を観ることで腑に落ちた。
壮太の「ハッピーエンド」を成就するため「自殺の才能」という言葉でもってその死を肯定すべく、
監督はフィクションパートを組み込むが、死の絶対性の前にそんな小手先な行為は破綻する。
その無様な部分もすべてさらけ出すことで、この映画が伝えたい真意は強靱さを増したように思った。
社会へ組み込まれるまでのモラトリアムな時を「わたしたちに許された」と形容することで逆説的に社会の歪みを表出し、
「特別な時間の終わり」と終止符を打つことで、その状況が危機的様態にまで在ることを監督は訴えている…と。
「おおでもさ、社会の調和がいったいさナンボのもんですか?」
「タバコを深く吸い込むだけで、一日がまた流れ去ってゆく」
「どうせ気分で生きている。それは社会と矛盾する。」
死を選んだ増田壮太は、オノレの歌でその歪みを叫んでいた。
彼を自殺にまで追い込んだこの社会は、そんなひとりの死を軽々と呑み込み、「惰性」でもって突き進んでゆく。
いやしかし、その「惰性」を生んでいるのはこの社会を構成しているわたしたち一人一人の意識であって、
「調和」や「平常」を重んじるというスタンスの裏には、立ち止まって考える「勇気」をナシ崩す
「思考停止の悪・凡庸の悪」が大様にのさばっていることを自身に問い詰めなければしょうがない!…と、
この映画は身を削って振り絞って訴えているのだ。
彼の歌ひとつひとつが、その盲点を突いていて、悼む。…必見。
ミュージシャンを志しながらも、志半ばで転がるように自らを死に追い込んでしまった友人、
増田壮太が残した遺言「映画を完成させてね。できればハッピーエンドで」に憑かれたように
この映画を完成させた太田信吾監督。
「わたしたちに許された特別な時間の終わり」というタイトルは、この映画を観ることで腑に落ちた。
壮太の「ハッピーエンド」を成就するため「自殺の才能」という言葉でもってその死を肯定すべく、
監督はフィクションパートを組み込むが、死の絶対性の前にそんな小手先な行為は破綻する。
その無様な部分もすべてさらけ出すことで、この映画が伝えたい真意は強靱さを増したように思った。
社会へ組み込まれるまでのモラトリアムな時を「わたしたちに許された」と形容することで逆説的に社会の歪みを表出し、
「特別な時間の終わり」と終止符を打つことで、その状況が危機的様態にまで在ることを監督は訴えている…と。
「おおでもさ、社会の調和がいったいさナンボのもんですか?」
「タバコを深く吸い込むだけで、一日がまた流れ去ってゆく」
「どうせ気分で生きている。それは社会と矛盾する。」
死を選んだ増田壮太は、オノレの歌でその歪みを叫んでいた。
彼を自殺にまで追い込んだこの社会は、そんなひとりの死を軽々と呑み込み、「惰性」でもって突き進んでゆく。
いやしかし、その「惰性」を生んでいるのはこの社会を構成しているわたしたち一人一人の意識であって、
「調和」や「平常」を重んじるというスタンスの裏には、立ち止まって考える「勇気」をナシ崩す
「思考停止の悪・凡庸の悪」が大様にのさばっていることを自身に問い詰めなければしょうがない!…と、
この映画は身を削って振り絞って訴えているのだ。
彼の歌ひとつひとつが、その盲点を突いていて、悼む。…必見。