自由と宿命は「矛盾するもの」ではなく、むしろ「位相の違うもの」である。
ほんとうに自由な人間だけが、おのれの宿命を知ることができる。私はそのように考えている。
何のために自分はこの世界に生まれ来て、限られた時間を過ごすことになったのか。
それを知りたいとみな思う。
多くの人はそのような問いにとらえられると、
レディメイドの世間知や哲学や宗教に答えを求めようとする。
たしかにそこへ行けば、答えはすぐ見つかる。
でもそれは万人向きの答えでしかない。
「神を信ぜよ」「愛こそすべて」「物自体に帰れ」「長いものには巻かれろ」でも
なるほどそれはその通りかも知れないけれど、そのような答えに
「私だけが成就でき、私がそれを果たさなければ、誰も私の代わりになれないような個人的使信」はなにか、
ということについては何も教えてくれない。
自由であるというのは、一言で言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、
誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。
他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、
それは自由とはなにかを知らない人間である。
そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。
(中略)
「ご縁」とは、いわば道のない野原をたどっている2人の人間が、
狙い澄ましたように、ある地点に同時刻に辿り着くことである。
地図やガイドブックに相談したり、案内人に引率されて道を歩むものの身には
決してそのような出会いは起こらない。
誰の指示も受けず、おのれの直観に従って、まっすぐ一筋の道を歩むものだけが、
まさにその時刻に、まさに他ならぬその場所に、
出会うべき人と出会うために、引き寄せられて来るのである。
(内田樹著「私の身体は頭がいい」より)
今日触れたこの言葉に、深い深い共感を覚えた。
フリーランスで活動するようになって6年。
あらゆる分岐点において、自分ひとりで判断し、決定の全責任をひとりで負うことをしてきた。
だからこそ、出会えた人たちがいて、だからこそ得られた機会があった。
そして何よりも、ここに来て、あらゆる物事が収斂され一纏めになりつつあるような予兆を感じる。
「五月雨を集めて早し最上川」じゃないけれど、支流が寄せ集まって大河となり、海に注がれるように、
いままで培ってきた知見が、ここに来て大きなストリームとなって流れていく体感がある。
ボクの名前は神主さんによって名づけられた。
長男を授かった両親が、命名に悩んだ末、産土さまにお願いしたようだ。
ここに来て、あらゆる要素が「神道」に端を発している、と気付く。
今回の写真展も「神道」をベースとした内容である。
「折口信夫」の古代学の生成は大本の「出口王仁三郎」が深く関わっている。
この「出口王仁三郎」は、大学時代に読んだ高橋和巳著「邪宗門」で深く共鳴していた人物。
巷に数多ある稲荷神社は渡来人「秦河勝」が創始したもので、
この「秦河勝」なる人物は猿楽の祖「観阿弥・世阿弥」の初世である。
その「観阿弥・世阿弥」が祀った神が摩多羅で「芸能の神」である。
(この道筋に能楽との出会い、ダンスとの出会いに宿命のようなものを感じるのであるが、割愛)
そして今回「北吉」を知るに及んで、宿命的なモノを感じてしまった。
ボクが1番に上げる映画は「サルバドールの朝」というスペイン映画である。
1970年代のスペインフランコ独裁政権に叛旗を翻し、
25歳の若さで絞首刑(それもとても残忍な)に処された若者を描いた実話。
「北吉」の兄「北一輝」は、その思想が叛乱罪であるという理由で
二二六事件に直接関与していないにも関わらず、
一方的な司法手段(非公開・弁護人なし・上告不可)で死刑を宣告され、国家に殺された。
で、ここが一番大事なところなのだけど、
現在、世間一般に思われている「神道」は、いわば死骸(なきがら)である。
「神道」もまた「国家に殺された」からだ。
(ここも説明が非常にむずかしいところなので、割愛…折口信夫もその事実から立ち上がった人間である)
なにかに憑き動かされているような感慨すら覚える。
「私だけが成就でき、私がそれを果たさなければ、誰も私の代わりになれないような個人的使信」
が目の前にぶら下がっているような、気持ちになる…この頃。
まずは「四谷の湿った放屁2」をしっかり成就すれば、また新たな邂逅があるはずだ…と思う。
ほんとうに自由な人間だけが、おのれの宿命を知ることができる。私はそのように考えている。
何のために自分はこの世界に生まれ来て、限られた時間を過ごすことになったのか。
それを知りたいとみな思う。
多くの人はそのような問いにとらえられると、
レディメイドの世間知や哲学や宗教に答えを求めようとする。
たしかにそこへ行けば、答えはすぐ見つかる。
でもそれは万人向きの答えでしかない。
「神を信ぜよ」「愛こそすべて」「物自体に帰れ」「長いものには巻かれろ」でも
なるほどそれはその通りかも知れないけれど、そのような答えに
「私だけが成就でき、私がそれを果たさなければ、誰も私の代わりになれないような個人的使信」はなにか、
ということについては何も教えてくれない。
自由であるというのは、一言で言えば、人生のさまざまな分岐点において決断を下すとき、
誰の命令にも従わず、自分ひとりで判断し、決定の全責任を一人で負う、ということに尽くされる。
他人の言葉に右往左往する人間、他人に決断の基準を訊ねる人間、
それは自由とはなにかを知らない人間である。
そのような人は、ついにおのれの宿命について知ることがないだろう。
(中略)
「ご縁」とは、いわば道のない野原をたどっている2人の人間が、
狙い澄ましたように、ある地点に同時刻に辿り着くことである。
地図やガイドブックに相談したり、案内人に引率されて道を歩むものの身には
決してそのような出会いは起こらない。
誰の指示も受けず、おのれの直観に従って、まっすぐ一筋の道を歩むものだけが、
まさにその時刻に、まさに他ならぬその場所に、
出会うべき人と出会うために、引き寄せられて来るのである。
(内田樹著「私の身体は頭がいい」より)
今日触れたこの言葉に、深い深い共感を覚えた。
フリーランスで活動するようになって6年。
あらゆる分岐点において、自分ひとりで判断し、決定の全責任をひとりで負うことをしてきた。
だからこそ、出会えた人たちがいて、だからこそ得られた機会があった。
そして何よりも、ここに来て、あらゆる物事が収斂され一纏めになりつつあるような予兆を感じる。
「五月雨を集めて早し最上川」じゃないけれど、支流が寄せ集まって大河となり、海に注がれるように、
いままで培ってきた知見が、ここに来て大きなストリームとなって流れていく体感がある。
ボクの名前は神主さんによって名づけられた。
長男を授かった両親が、命名に悩んだ末、産土さまにお願いしたようだ。
ここに来て、あらゆる要素が「神道」に端を発している、と気付く。
今回の写真展も「神道」をベースとした内容である。
「折口信夫」の古代学の生成は大本の「出口王仁三郎」が深く関わっている。
この「出口王仁三郎」は、大学時代に読んだ高橋和巳著「邪宗門」で深く共鳴していた人物。
巷に数多ある稲荷神社は渡来人「秦河勝」が創始したもので、
この「秦河勝」なる人物は猿楽の祖「観阿弥・世阿弥」の初世である。
その「観阿弥・世阿弥」が祀った神が摩多羅で「芸能の神」である。
(この道筋に能楽との出会い、ダンスとの出会いに宿命のようなものを感じるのであるが、割愛)
そして今回「北吉」を知るに及んで、宿命的なモノを感じてしまった。
ボクが1番に上げる映画は「サルバドールの朝」というスペイン映画である。
1970年代のスペインフランコ独裁政権に叛旗を翻し、
25歳の若さで絞首刑(それもとても残忍な)に処された若者を描いた実話。
「北吉」の兄「北一輝」は、その思想が叛乱罪であるという理由で
二二六事件に直接関与していないにも関わらず、
一方的な司法手段(非公開・弁護人なし・上告不可)で死刑を宣告され、国家に殺された。
で、ここが一番大事なところなのだけど、
現在、世間一般に思われている「神道」は、いわば死骸(なきがら)である。
「神道」もまた「国家に殺された」からだ。
(ここも説明が非常にむずかしいところなので、割愛…折口信夫もその事実から立ち上がった人間である)
なにかに憑き動かされているような感慨すら覚える。
「私だけが成就でき、私がそれを果たさなければ、誰も私の代わりになれないような個人的使信」
が目の前にぶら下がっているような、気持ちになる…この頃。
まずは「四谷の湿った放屁2」をしっかり成就すれば、また新たな邂逅があるはずだ…と思う。