西田が短歌の中で、我が喜びも憂いも届かない心の底があると云ったのも、このようなことでしょう。
心の底とは「無の場所」です。
そこには、喜びも憂いもない。と同時に、喜びも憂いもどちらもある。
鈴木大拙が云ったように、皆と一緒に悲しみ、慟哭しつつも、しかも慟哭せずじっと見ている何かがある。
どこかに慟哭している自己を意識している自己があるのなら、その自己は慟哭していないのです。
しかし高次の自己は認識の対象とはならず、
その意味では常に慟哭している自己を映し出す「無の場所」というほかない。
ですから、この場所は実体としての「私」を離れて、どこかにあるものではない。
私から見れば常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。
しかし、この影の方から見れば、実は「私」こそが影像に過ぎないのです。
こうして「生」は常に「死」と表裏一体となっている。
「生」の背中には常に「死」が張り付いている。
もちろん、この「死」は見えません。
見えているのは、活動し動いている「生きた私」だけです。
しかしその「私」はあくまでも
いずれくる絶対的なものである「死」に於いて
その上に乗って在るのです。
こうして生きて在る「私」は、いわば二重構造になっている。
オモテにあって見えている「私」と。
ウラにあって見えていない「死」の二重性によって存在しているのです。
だから「私は私である」ということではないのです。
「私は私でなくして、私である」ということになる。
「生」の中に「死」を取り込む。とはそういうことなのです。
だから、「生」が「死」によって支えられている…
ということも少し変形すれば「生者」は常に
「死者」によって支えられているという意識になるでしょう。
生在る者は死者という目に見えない何かによって生かされている、という感覚を我々は持つ。
「生者」のこの世界の背後には「死者たち」の世界が広がっているという風に考える。
だから折口信夫が述べたように「もの」にはもうひとつ重要な意味があって、
それは「もの=霊」だというのです。
「ものの気」や「ものの気配」などというように「もの」には時には
どこか霊妙な、すなわち、この世とあの世の橋渡し的なニュアンスが付加されている。
かくて人にせよ、物にせよ、我々は「もの」は常に「無」と一体だと考える。
このように日本語の「もの」というコトバは、多様という以前に、独特の深みをもっています。
物的な存在としての具体性を集合したモノ性の背後に、「無」へ向かう宿命をどこか暗示し、いわば
「無の影」を宿している。そういう「もの」の有り様を、本居宣長は「もののあはれ」と言ったのでした。
「もの」は、ただそこにある物体ではなく、
それが「消滅」という生在るものの不可避の宿命を暗示するがゆえに、
我々はそれを愛おしく思い、そこにそのもの独自の美を美、感興を引き起こされるのです。
そこに日本的精神の真髄を見たのでした。
(佐伯啓思著『西田幾多郎〜無私の思想と日本人』)
丸木美術館@東松山市
心の底とは「無の場所」です。
そこには、喜びも憂いもない。と同時に、喜びも憂いもどちらもある。
鈴木大拙が云ったように、皆と一緒に悲しみ、慟哭しつつも、しかも慟哭せずじっと見ている何かがある。
どこかに慟哭している自己を意識している自己があるのなら、その自己は慟哭していないのです。
しかし高次の自己は認識の対象とはならず、
その意味では常に慟哭している自己を映し出す「無の場所」というほかない。
ですから、この場所は実体としての「私」を離れて、どこかにあるものではない。
私から見れば常に私の背後に影としてついてまわるものなのです。
しかし、この影の方から見れば、実は「私」こそが影像に過ぎないのです。
こうして「生」は常に「死」と表裏一体となっている。
「生」の背中には常に「死」が張り付いている。
もちろん、この「死」は見えません。
見えているのは、活動し動いている「生きた私」だけです。
しかしその「私」はあくまでも
いずれくる絶対的なものである「死」に於いて
その上に乗って在るのです。
こうして生きて在る「私」は、いわば二重構造になっている。
オモテにあって見えている「私」と。
ウラにあって見えていない「死」の二重性によって存在しているのです。
だから「私は私である」ということではないのです。
「私は私でなくして、私である」ということになる。
「生」の中に「死」を取り込む。とはそういうことなのです。
だから、「生」が「死」によって支えられている…
ということも少し変形すれば「生者」は常に
「死者」によって支えられているという意識になるでしょう。
生在る者は死者という目に見えない何かによって生かされている、という感覚を我々は持つ。
「生者」のこの世界の背後には「死者たち」の世界が広がっているという風に考える。
だから折口信夫が述べたように「もの」にはもうひとつ重要な意味があって、
それは「もの=霊」だというのです。
「ものの気」や「ものの気配」などというように「もの」には時には
どこか霊妙な、すなわち、この世とあの世の橋渡し的なニュアンスが付加されている。
かくて人にせよ、物にせよ、我々は「もの」は常に「無」と一体だと考える。
このように日本語の「もの」というコトバは、多様という以前に、独特の深みをもっています。
物的な存在としての具体性を集合したモノ性の背後に、「無」へ向かう宿命をどこか暗示し、いわば
「無の影」を宿している。そういう「もの」の有り様を、本居宣長は「もののあはれ」と言ったのでした。
「もの」は、ただそこにある物体ではなく、
それが「消滅」という生在るものの不可避の宿命を暗示するがゆえに、
我々はそれを愛おしく思い、そこにそのもの独自の美を美、感興を引き起こされるのです。
そこに日本的精神の真髄を見たのでした。
(佐伯啓思著『西田幾多郎〜無私の思想と日本人』)
丸木美術館@東松山市
ダンスがみたい!18「エリック・サティを踊る」
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
振付・出演/三東瑠璃
衣裳・美術/稲村朋子
音楽/佐藤公哉&権頭真由(hyogen)
振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
写真は代田区民センターでの稽古場通しのようす
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
振付・出演/三東瑠璃
衣裳・美術/稲村朋子
音楽/佐藤公哉&権頭真由(hyogen)
振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
写真は代田区民センターでの稽古場通しのようす
ダンスがみたい!18「エリック・サティを踊る」
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
振付・出演/三東瑠璃
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音楽/佐藤公哉&権頭真由(hyogen)
振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
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ダンスがみたい!18「エリック・サティを踊る」
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
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音楽/佐藤公哉&権頭真由(hyogen)
振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
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ダンスがみたい!18「エリック・サティを踊る」
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
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ダンスがみたい!18「エリック・サティを踊る」
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
振付・出演/三東瑠璃
衣裳・美術/稲村朋子
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振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
写真は代田区民センターでの稽古場通しのようす
三東瑠璃×稲村朋子『眠る場所』@日暮里d-倉庫
振付・出演/三東瑠璃
衣裳・美術/稲村朋子
音楽/佐藤公哉&権頭真由(hyogen)
振付アシスタント...橋本玲奈,渡邊絵理
写真は代田区民センターでの稽古場通しのようす