〈論文〉危機の時代の太田省吾 by 西堂行人
「劇という表現が、他の表現と分かれるところは、そこに生きた人間がいるという直截的事実を前提とする表現だというところである。
そこに人間がいるということは、生命存在、意識存在がいるということであり、要約のきかない面をもった者、概念化からはみ出す者、
多義性をもった者が居るということである。」
↓↓↓
「ぜったいに欠かすことのできない精神状態は、能動的な役を実現するために、受動的な身構えである。
『それをやろう』という状態ではなくて、『甘んじて身を引いた』状態である。」
↓↓↓
「〈伝達〉ではたしかに能動が力である。しかし、〈表現〉では必ずしもそうではない。
むろん、ふつう力とは前の方向への力のことだ。しかし、良い表現に触れる時、
わたしたちは、前の方への力とは違った力を感じないだろうか。(中略)
〈表現〉に触れるとはこの力に触れることだ。とすると、〈伝達〉では能動の力だが、
〈表現〉では受動が力だとは言えないだろうか。」
↓↓↓
そこで「なにもかもなくしてみる」である。
太田の演劇観は、次々と選択肢を捨てていく「引き算」の方法である。そこでどこまで捨てられるか。
太田ならば、宮澤賢治から、こういう言葉を引き出してくるのではないだろうか?
「人とはどういうことがしないでいられないだろう」か、と。
この問いの立て方を太田は、「なすべきーなすべきでない」という正ー反の選択を超えた問いだと言っている。
「なすべきか」が能動的な問いだとしたら、「しないでいられない」とは受動の問いである。
どこまでも後退していって、「やらなくていいことをやらない」を探っていく。
前傾姿勢にならず、どこまでも後ろに身を引き、どっしりと構えていく。
この受動性の構えの中に演劇的思考が宿っている。
演劇には強靱な思考の構造があるのだと太田は考えたのだろう。
それが〈3.11〉をも含む「災害」に対する、演劇側からの回答ではないだろうか?
●
【劇という表現は、そこに生きた人間がいるということ】という確固とした自信は、
〈実在〉という事の重さを、しかと受け止めているからだと、ボクは思う。
生命存在、いのちというものの重さを、真っ正面から捉えている人の言葉だ。
【金が欲しいのは金が欲しいからだ】という無目的で前のめりな経済活動に突き動かされている現代人には、
その〈実在〉の重さを受け止める度量がないのだと、思うのだ。
だから「なすべきか」の能動的行為が、「なさない」という受動的態度の上位に来てしまう。
己の〈実在〉が軽いから、遠心力でもって重力を味方に付けるべく、動き回る。
実はそうではなくて、引き算でもって「ただそこに居る」という受動の表現に気付くこと。
〈実在〉の重さをそれぞれが体感すること。このことが、今の日本には必要だ。
【舞踏】や【能】の表現のように。
写真はKUNIO14『水の駅』より。
#photobybozzo
「劇という表現が、他の表現と分かれるところは、そこに生きた人間がいるという直截的事実を前提とする表現だというところである。
そこに人間がいるということは、生命存在、意識存在がいるということであり、要約のきかない面をもった者、概念化からはみ出す者、
多義性をもった者が居るということである。」
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「ぜったいに欠かすことのできない精神状態は、能動的な役を実現するために、受動的な身構えである。
『それをやろう』という状態ではなくて、『甘んじて身を引いた』状態である。」
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「〈伝達〉ではたしかに能動が力である。しかし、〈表現〉では必ずしもそうではない。
むろん、ふつう力とは前の方向への力のことだ。しかし、良い表現に触れる時、
わたしたちは、前の方への力とは違った力を感じないだろうか。(中略)
〈表現〉に触れるとはこの力に触れることだ。とすると、〈伝達〉では能動の力だが、
〈表現〉では受動が力だとは言えないだろうか。」
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そこで「なにもかもなくしてみる」である。
太田の演劇観は、次々と選択肢を捨てていく「引き算」の方法である。そこでどこまで捨てられるか。
太田ならば、宮澤賢治から、こういう言葉を引き出してくるのではないだろうか?
「人とはどういうことがしないでいられないだろう」か、と。
この問いの立て方を太田は、「なすべきーなすべきでない」という正ー反の選択を超えた問いだと言っている。
「なすべきか」が能動的な問いだとしたら、「しないでいられない」とは受動の問いである。
どこまでも後退していって、「やらなくていいことをやらない」を探っていく。
前傾姿勢にならず、どこまでも後ろに身を引き、どっしりと構えていく。
この受動性の構えの中に演劇的思考が宿っている。
演劇には強靱な思考の構造があるのだと太田は考えたのだろう。
それが〈3.11〉をも含む「災害」に対する、演劇側からの回答ではないだろうか?
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【劇という表現は、そこに生きた人間がいるということ】という確固とした自信は、
〈実在〉という事の重さを、しかと受け止めているからだと、ボクは思う。
生命存在、いのちというものの重さを、真っ正面から捉えている人の言葉だ。
【金が欲しいのは金が欲しいからだ】という無目的で前のめりな経済活動に突き動かされている現代人には、
その〈実在〉の重さを受け止める度量がないのだと、思うのだ。
だから「なすべきか」の能動的行為が、「なさない」という受動的態度の上位に来てしまう。
己の〈実在〉が軽いから、遠心力でもって重力を味方に付けるべく、動き回る。
実はそうではなくて、引き算でもって「ただそこに居る」という受動の表現に気付くこと。
〈実在〉の重さをそれぞれが体感すること。このことが、今の日本には必要だ。
【舞踏】や【能】の表現のように。
写真はKUNIO14『水の駅』より。
#photobybozzo