【100歳ピアノ】
安部能成と竹野をつないだ立役者が大部孫太夫であることは、
自伝『我が生い立ち』により詳らかだけど、
中竹野コミュニティの太田さんに「大部邸」を案内してもらって、
さらに深いところが見えてきた。
大部孫太夫は代々
中竹野の庄屋として地域をとりまとめていたらしく、
1875-1939の大部孫太夫は12代目。
大正7年の竹野川氾濫で地域が壊滅的な被害を被った際、
「川替え」といって護岸及び流れの向きを変える
大工事を3年がかりで行っている(今展示中)。
13代目の大部孫太夫1901-1997が太陽生命の社長となった際、
血縁関係にあった長澤家に跡目を引き継ぎ、孫太夫は途絶えるのだけど、
安部能成の帝大同期が長澤一夫1882-1965で、
その弟が長澤薫1889-1963であることが分かってきた。
長澤薫は戦前、鐘淵紡績の工場長として実績を上げていたらしく、
昭和38年当時の社長が墓碑銘を事細かに刻んでおり、
「大部邸」に人知れず飾られてあった。
大正から昭和初期の竹野の栄華、
それは見事なものであった…と
豪奢な『斐蛟泉庭園』を眺める。
(敬称略)
#photobybozzo
安部能成と竹野をつないだ立役者が大部孫太夫であることは、
自伝『我が生い立ち』により詳らかだけど、
中竹野コミュニティの太田さんに「大部邸」を案内してもらって、
さらに深いところが見えてきた。
大部孫太夫は代々
中竹野の庄屋として地域をとりまとめていたらしく、
1875-1939の大部孫太夫は12代目。
大正7年の竹野川氾濫で地域が壊滅的な被害を被った際、
「川替え」といって護岸及び流れの向きを変える
大工事を3年がかりで行っている(今展示中)。
13代目の大部孫太夫1901-1997が太陽生命の社長となった際、
血縁関係にあった長澤家に跡目を引き継ぎ、孫太夫は途絶えるのだけど、
安部能成の帝大同期が長澤一夫1882-1965で、
その弟が長澤薫1889-1963であることが分かってきた。
長澤薫は戦前、鐘淵紡績の工場長として実績を上げていたらしく、
昭和38年当時の社長が墓碑銘を事細かに刻んでおり、
「大部邸」に人知れず飾られてあった。
大正から昭和初期の竹野の栄華、
それは見事なものであった…と
豪奢な『斐蛟泉庭園』を眺める。
(敬称略)
#photobybozzo