原一男監督作品『ニッポン国VS泉南石綿村』
原一男監督23年ぶりのドキュメンタリー。
初の生活者を撮る。
2006年の石綿全面禁止から、被害者発掘を経て国賠訴訟を起こし、
最高裁勝訴までの約10年をカメラは執拗に追い掛ける。
上映時間3時間35分。必要な長さだと思った。
国の犯罪を国のシステムで裁く矛盾が徐々にあからさまになるあたりが瞠目。
石綿産業自体が1907年から始まって戦後隆盛を極めていくのだけど、
その担い手が日本統治下の韓国人や被差別の人たちだった…というのがもはや策略的で、
「産業社会の発展の妨げとなる規制はNG」なる地裁の判決も
国のために民を犠牲にする【国家】の成り立ちそのもので、憤憤もの。
乾燥地帯で米も満足に採れない泉南地区に産業を興したがゆえに、
盲しいだ民は嬉々し働き、石綿吸いこんで呆気なく亡くなっていく。
このドキュメント中も原告が21人、次々と亡くなる。
10年の月日はその惨状を記録するために必要な長さだった…と監督は述懐する。
それでも時の大臣が泉南に現れたら「もう怒り忘れました」などとのたまう原告。
どこまでも【国家】というシステムに馴致されている民。
ああ情けない。たかだか150年ですよ、国家なんて。
なぜその成り立ちそのものを疑おうとしないのか?
国家が起ち上がってからこの国は幸せになったのか?
4度の戦争と公害、優生思想による強制避妊手術など、
税金巻き上げて碌なことしとらんわ。
「最高裁が認めたから謝る」という厚労大臣の発言が端的ですわ。
結局、政治は10年20年のスパンでは見通せないモノを動かすコト。
その決断に10年20年先の未来を下す重さがなければ、不均衡なワケで、
その実態を政治家は露にも実感していないことが大問題。
原告のひとりが「そん時の大臣が来るわけじゃなし、謝られてもね」という感慨がホントすべて。
どこまでも無責任なシステムが今の政治機構であり、
その無責任なシステムに大量のお金をむしり獲られ、
私利私欲で動かされてしまっている実態を、
国民ひとりひとりがもっと怒らなければならない。
システムそのものが均衡を大きく欠いているのだ。