現在、7月11日、月曜日、午前1時。久しぶりにリアルタイムでブログ更新をしている。
10日の日曜日も、体力を持て余す小学2年生の息子と2人、郡山市西部の山間にある「石筵ふれあい牧場」に遊びに行った。
午前中はスイミングスクールの進級テストもあったのだが、25メートルを1回泳いだくらいではいつも、屋外遊びを禁じられている小学2年男児がエネルギーを放出させきることなど到底できない。
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で、いつものように2人で疲れきるまで遊んだ。
午後9時就寝。ふと、目が覚めると午前零時半を過ぎていた。
妻は階下で仕事をしている様子。寝室には私と息子と2人だ。
薄明りの中で息子が少しぐずったので、手を握った。親の存在を触感で確認すると、また寝入った。
しばらく手を握って寝顔を見ていたら、なんとなく、その手で体が一つにつながっている気がしたので、「もし息子に放射線が蓄積されているのならば、オレの方に流れてこい」と頭の中で祈りながら、少し強めに手を握った。
双葉で被災した義父母と姪を郡山市の自宅に受け入れてから、私自身、震災前より家族を大切に感じるようになった。息子も、大人びてきたように感じる。
典型的な核家族だった私たち親子にも、一定の「人間性の復興」がもたらされたように感じている。
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大震災と原発事故から、随分と時間が過ぎた。災害直後のショックが醒めはじめ、電源の危機を唱え始める人や、この機をビジネスチャンスとする動きも出てきている。
被災者や各種の補償に群がる「火事場泥棒」もしばしばニュースに登場するようになった。
当然、そういう人は出てくるだろう。
でも、大局的に見れば、何万人もの生命を奪い、何百万人もの生活を破壊したこの災害に対して、誠実な精神のみが見届けていく資格があるのではないかと思う。
場当たり的な利害からでなく、歴史としての観点からこの震災を見るのであれば。
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ほかの時代よりも一層に誠実な精神が、人々に、政治家に、科学者に求められている。
「社会の復興」「経済の復興」はもちろん重要。そして、何より「人間性の復興」が不可欠だと思う。
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