アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

母たちのたび

2006-10-24 | Weblog
 21日から22日にかけて、母と、母の妹夫婦、母の姪の計4人が会津を訪れた。会津在勤・在住の私が案内役を務めた。75歳の母を筆頭に61歳の姪まで、男1人、女3人で平均年齢は70歳。

 磐越高速道で車で来たのだが、インターチェンジの外まで迎えにいって待っていると、母の携帯電話から連絡があり、インターチェンジ1キロ手前でパンクした、とのこと。路肩に停車しているらしい。JAFに頼めば確実だが、高速内では料金が結構高く取られる。ハザードランプを点灯させながら低速で走るように指示すると、10分ほどでインターチェンジから出てきた。点検するとなんでもない。ガソリンスタンドにも寄ったが異常は見られない。

 運転していた叔父だけでなく、みながパンクと感じたようだが、どうやら強風にあおられて車がぶれたらしい。
 ともかく無事でよかった。

 はじめに、会津若松駅前の渡辺宗太商店で昼食。天ざるを食べた。ここは本業は地酒屋だ。品揃えが豊富で、建物の一角には氷室も設置して昔ながらの方法で酒を保管している、かなりしっかりした店だ。また、ここで出すそばも逸品で、隠れた名店として地元のそば通に知られている。酒にしても、そばにしても、誠実につくり、管理しているのが分かる。


 ちなみに、「ざるそば」というと東京などではそばにきざみ海苔のかかったものを指し、海苔のかかっていないものは「もりそば」と言うらしいが、会津では海苔なしのものを「ざるそば」と言う。海苔がかかっている店はほとんどない。たまに「もりそば」に海苔が付くような店もあり、東京の「もり」「ざる」とはまったく逆転している。そもそも、なんでせっかくのそばに、海苔を乗せてしまうんだろう。香りがもったいないと思うのだが。
 

 ともかく、挽きたて、打ちたて、茹でたてがそばの「三たて」と言っておいしくいただく最良の方法だそうだ。さすがに挽きたてとはいかないが、打ちたて、茹でたてのみずみずしいそばが出てきた。てんぷらが山菜だけというのもうれしい。無理に海老や魚などは使わない。山国の会津には、山国ならではのおいしい食材がある。


 食材は採れた土地で食べるのが、これまた最良の食べ方であると思う。旅をするのは人であり、食材はなるべく旅をしないほうがよろしい。

 

 会津漆器の名店「白木屋」では、つややかな作品の数々に感嘆しながらも、もっぱら見物だけになった。美しくてほしくてほしくてたまらないのだが、なにしろ値札を見て自重した。



 続いて、会津本郷焼の窯元、宗像窯へ。この窯は約400年の伝統を誇る東北地方最古の窯で、昨年まで当主だった7代目亮一氏は民芸の大家として知られる。昨年8代目を継いだ利浩氏は、現在の日本で最も尊敬されている陶芸家の一人である。九月に池袋三越で個展を開いたばかりで、また、隔年開催の日本陶芸展では、昨年は親子で招待作家となった。ちなみに招待作家は25人ほどで、柿右衛門や赤水などの人間国宝も名を連ねている。来年も利浩氏は招待だという。

 

 母たちが訪れたこの日、実は利浩先生は窯のある会津美里町・本郷地区から車で20分ほどの距離にある会津若松である式典に出席し、母たちが訪れるのに合わせて窯に戻ってきてくれたのだった。さらに、その式典の祝賀会が若松であり、母たちの相手をしてくれたあと、また若松へ戻っていた。


 別に、私も母も何者でもない。すでに亡くなっているが、父だって普通の勤め人だった。われわれは、どこにでもいる一組の親子でしかない。それなのに、押しも押されぬ陶芸の大家である利浩先生が、私と多少のお付き合いがあるからといって、式典と祝賀会の合間を縫って会場を抜け出してきていただき、美の世界に疎い
私たちの相手してしていただいたことには、本当に感謝の一言である。


 母たちも、陶芸や「用の美」などについての話に感服しつつ、さらに丁寧に説明してくれる利浩先生の高い人間性に感服していたようだ。窯から宿泊先へ向かう車中、母たちは「徳の高いお坊さんと接したような清々しい心地だ」「焼物には人間性が出るもんだね」と話していた。


 夜は会津若松市内の渋川問屋に宿泊。ここは「問屋」という名の通り、昔は海産物問屋だった。現在のように流通の発達する以前、山国の会津で海産物といえば乾物だった。「鰊の山椒漬」や「棒鱈」などが有名だ。渋川問屋は、かつてそれらの乾物を会津一円に供給していたという。


 現在の社長がホテルと郷土料理の料亭としてリニューアルした。
 2・26事件で処刑された渋川善助が生まれ育った場所でもあり、またすぐ隣にある阿弥陀寺には、新選組一番隊長だった斎藤一の墓がある。


 母たちはここの一室に泊まった。一室と言っても、とにかく広い。日本間2つ、洋間1つ、そのほか居間、風呂・トイレなど、全部で50畳はあるだろうか。いや、もっとか。調度品も上品で、華美でなく、落ち着いている。部屋全体、建物全体が協調し合って「大人がゆったりと過ごせる」という雰囲気を創出している。その通りに、子どもの出入りは禁止だ。本当は、短い時間でも息子を連れて入りたかったが、ほかの宿泊客に騒がしい思いをさせてしまってはこのホテルのコンセプトや格式を台無しにしてしまうと思って我慢した。


 夕食は、渋川善助が勉強部屋として使っていたという「憂国の間」を使わせてもらった。

 翌朝、母たちを迎えに行くと、「すべてが最高だった」との感想。親不孝しかしたことがなかったが、自身45歳、母75歳にして、初めて親孝行ができてうれしかった。


 2日目は北会津の観光農園で果物狩り。私と妻、息子も加わった。この季節はプルーン、りんご、ブドウが旬ということで、母たちは息子以上にはしゃいで、うれしそうに果物を採っていた。よりおいしそうなプルーンを採ろうと、母が木登りをしたのには驚き、またうれしかった。昔、実家の柿の木で鍛えたそうだが、それでも約60年ぶりの木登りである。10年ほど前に心筋梗塞で倒れ、2度心臓が停止した死の淵から、こちら側に戻ってきた。しばらく元気がなかったが、ここまで回復しているとは思わなかった。

 そういえば、数年前に大病を患った叔母も、明らかに普段よりも元気に果物を採っていた。


 2人とも70歳以上。この世代は、子どもの頃は戦時下にあり、食べ物は自力で屋外から調達してきた世代である。多分、木になっている果物などは、食べ物の中でも、安易に手に入るものの部類だったのだろう。食べ物は大人が与えてくれるものとなっている、現在のひ弱な日本の子どもたちとは違う。樹上の食物を見て、かつての食べ物への執念というか、生き物としての本来のたくましさが戻ったようにも思えた。


 続いて、野菜の直売所に立ち寄り、朝採りの野菜を買ったあと帰路に就いた。

 
 夜、母から電話があり、帰りの車内ではみなが感謝してくれていたとのこと。うれしかった。



 母をはじめ今回の旅行に参加した4人はこれまで、それぞれ逆境の人生を旅してきた。自ら語ることはないが、私の知る範囲だけでも、もし自分に同じような人生が来てしまったらと思うと身震いせずにいられない。母たちは、坂道をどうにかこうにか上ってきて、今、ようやく人生の収穫期を迎えている。それぞれの人生にどんな実がなったか。甘かったのか、苦かったのか。大きかったのか、小さかったのか。いや、そもそも成ったのか。順境の中を安穏と歩いてきた私には、それを測るものさしはない。
 
 しかし、そんな人生の達人たちが、しばしの間でも「楽しかった」と言ってくれた。
 一人の未熟者として、私はそれがうれしかった。

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