アコギおやじのあこぎな日々

初老の域に達したアコギおやじ。
日々のアコースティックな雑観

熊猫巧克力

2006-10-27 | Weblog
 会社の後輩が、中国出張から帰って来た。
「三国志」の豪傑・関羽で有名な荊州などに行ってきたのだが、みやげが出色であった。
「熊猫巧克力」。直訳すれば「パンダ・チョコレート」。箱にはかわいらしいパンダの親子の写真があり、その隣にそのチョコレートの写真が3つ並んでいる。が、その写真ははっきり言ってパンダじゃない。箱を開けると、さらにパンダじゃなかった。  

 パンダといえば、白黒の斑である。目の周りや耳などが黒くて、そのくっきりと分かれている様は、まるでおもちゃのようであり、愛嬌のある仕草に拍車をかけて、愛らしく、子どもの人気を得ている。
 しかし、この「熊猫巧克力」は形はまあ招き猫みたいでパンダにも見えなくもないが、パンダの最大の特徴である白黒の斑があまりにも雑すぎる。茶色のチョコレートにホワイトチョコレートをかぶせてパンダにしようとしているのだが、かぶせ方があまりにも乱雑。体に斜めに白い帯状の模様があるだけだったり、片腕だけが白かったり。どちらかというと、皮膚病のヒグマである。箱の写真がなければ、パンダとは誰もわからない。
 せっかく買ってきてくれた後輩には申し訳ないが、「これはヒグマだ」と言うと、後輩は「いや、これはパンダです。中国の人たちは小さなことにはこだわらない寛容さがあるのです。白黒の動物ならば、それはパンダです」と、いまだ中国気分が抜けきらぬ様子で、私の島国根性をさげすむよう開き直るのだ。「では、シマウマもパンダか」と言おうと思ったが、「その通りです」と力強く即答されそうで怖かったのでやめた。ただ、彼の言うように、まあ、これはパンダかもしれないと思った。作った人間がパンダのつもりならば、やっぱりそれはパンダでいいのだ。   

 10年ほど前、中国の東北地方を訪ねたことがある。ずっと通訳付きの日程だったので、さすがにいやになって、あるとき1人で町に出た。しかし、調子に乗って歩いているうちにホテルの場所が分からなくなり、交差点で右往左往していた。すると、初老の男性が「道に迷ったのですか。どこへ行きたいのですか」と日本語で話しかけてきた。
 外国の交差点で突然の日本語である。少々驚いたが、聞けば、彼は日本人が中国東北部を「満州」と呼び、植民地支配しようとした時代に強制的に日本語を勉強させられたという。私は条件反射的に謝ったが、彼は「日本人にはひどいことをされたが、昔のことだ。また、あなたが私にひどいことをしたわけではない」と笑った。  

 「でかいなあ」と思った。確かに国家間レベルでは、中国や朝鮮半島の国は今でも外交カードの切り札として「過去」を使う。しかし、民間レベルでは、もうこだわっていない人が多いというのだ。もちろんそれぞれの体験によって個人差はあるだろうが。
 中国の人たちは、日本人が考えるより物事のとらえ方が寛容であり、また俊敏であると感じた。いつまでも過去を遡って恨みを言うような執着は希薄だと思った。生きていくために必要であれば恨むし、益を為さないならばいつまでも執着してはいない。生きることに俊敏に反応しているのである。

 近年、反日ブームに突然火がつくことがあるが、あの初老の男性の態度を見ると、侵略された体験の当事者ではない若者たちが反日運動に熱狂するのは、よく言われるように、やはり国策ではないかと思う。 
 
 滞在中、中国の新聞やテレビの記者たちと交流する一夜があった。「国の不正に対しては、どのように臨むか」という話題に至ったとき、彼らは「国が不正を行うはずがない」と言い切った。彼らの取材とは、国から提供された情報をニュース化するだけらしい。考えてみれば、1党独裁政治下の国では当然か。

 しかし、民というのは実に機に敏いものであって、国がいくら外交上で「過去」を持ち出そうとも、民は制御されない。
 いつの過去まで遡って被害者でいるのか。少なくとも、中国で出会った初老の男性は、日本の青年には敵意はなく、すでに被害者であることを捨て、機敏に生きていた。


 まあ、そういうことで、後輩の買ってきたチョコレートは、私にはいまだにヒグマっぽく見えるのだが、後輩に従ってパンダだと思うようにした。まあ、ピカソの「ゲルニカ」は実際の戦争写真より悲惨さを訴えかけてくるし、ルノアールの裸婦は実際の女性よりもぬくもりを感じさせる。モネの貴婦人なんかは、顔が影になっていて見えないが、見えないからこそ名画なのだと思う。

 きょう、パンダチョコを前にして思い至ったが、やはり私の感覚は杓子定規になっているのかもしれない。後輩もまもなく中国かぶれが抜けて杓子定規の私のようになってくるとは思うのだが、今は彼のほうがあらゆることに鋭敏な感覚を持ち、かつ寛容な感性を持っているのかもしれない。




 余談だが、私が中国を訪れた10年ほど前、当時の日本では「たれパンダ」というキャラクターが子どもに大人気だった。小学生だった姪に「パンダは単なる熊の1種だ。人も殺されているぞ」と言って偏向パンダ熱を冷ましてあげようとした。しかし、バカな宗教のような「パンダ崇拝」をやめさせようにも、「信じるものは救いようがない」ということで、ともかくパンダ関連グッズを買って来いということだった。
 私はパンダの本場・中国で関連グッズを1週間の滞在中探して回ったが、ほとんどなかった。あるとき、店員に聞いてもたら「パンダなんか流行遅れですよ。ミッキーマウスのブローチならあるよ。いま大人気だよ」。
 中国がパンダを外交ツールとして輸出していたブームはすでに終わっていた。改革開放路線の中、中国国内では資本主義世界からやってきたネズミの方が受けていたのだ。

 やっぱり機に敏いなあ。いま思い返しても、改めて感心させられる。

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