現在、2011年4月30日午後9時20分。
震災のあと、このブログまで来れない環境にいた。ゴールデンウイークに入り、ようやく環境が整い始め、いま、家族や避難している人たちが就寝したのを確認して自宅でノートパソコンを開いた。
以下の文章を書いたのは、3月末と4月初旬の何回かに分けて。すでに、手垢まみれとなってしまった情報も時宜を失してしまった感想もある。が、この2011年3月と4月の記録として、あえてアップしておくことにした。
◇
2011年3月11日午後2時46分。
巨大な暴力だった。
大地と海の圧倒的な力による破壊は、多くの生命を奪い去ってしまった。
しかし、原発は、大地と海の巨大な力よりもさらに大きな不幸をうみ続けている。
今後、加速度を増して広がり続けるだろう。
周囲のすべてを蝕みながら、放射能汚染が広がり続けている。
福島の壊死が、始まっている。農業も漁業も観光業も商業も工業も流通業も、福島のすべての活動が蝕まれ始めた。
◇
「絶対に安全です」。
福島県の浜通り地区に勤務していたころ、東京電力との懇親会にしばしば参加した。職員たちは、いつも素晴らしい笑顔で原発の安全性を話していた。
相手を説得しようとしすぎる人たちだった。今となってみれば、組織ぐるみのうそつきだった。
マスコミに対しても満面の笑みでうそをつける人たちだった。地域の人たちには、原発賛成派には飴を、反対派には鞭を入れながら、彼らはまんまと、原発立地地域の行政もマスコミも住民をも嵌めることに成功した。
原発は、電力需要が増大し始めた昭和30年代からの国策だ。国は、国を維持し、さらに発展させていくためには原発が不可欠だと判断した。だから反対する者は国として許さなかった。
電力会社の歯車でしかなかった職員たちにとっては、「安全神話」のうそも悲しい職務だったのかもしれない。
ただ、うそをつき続けた東京電力や国が、今回の被害の原因者であることは間違いない。あまりに罪深い。
そうはいっても、彼らに対して直接的な責任を問うてばかりもいられない。電力を求めたわれわれ自身の生活にも、原発事故の遠因は確実にあるのだ。
◇
もう、テレビも新聞も見るのが苦痛だ。見れば必ず気が滅入る。情報は得なくてはいけないから見る。が、福島は酷くなるばかりだ。
東京電力の発表は、ここに至っても事実なのか?
これまでの同社の「捏造の歴史」を考えると、今回は正直にやってます、とはとても思えない。あとから「混乱を避けるために情報を制限した」などと言いかねない。それほど、うそにうそを重ねてきた組織なのだ。
◇
このような暗澹の中、次の世代、さらに次の次の世代は福島で生きていけるのだろうか。放射能の暗雲が晴れることは、果たしてあるのだろうか。
正直なところ、子どもには安心な場所で生きていってほしい、という思いがよぎる。いわきも、双葉も、もうしばらくは人が立ち入れなくなる可能性が少なくない。
いつの日か、父親である私の故郷・いわきや、母親である妻の故郷・双葉も再び訪れてほしいと願うのだが、それは遠い未来のことでいい。
まずは、ともかく、生き延びてほしい。
◇
地震と津波による大きな被害を受けた宮城、岩手などでも力強い復興の兆しが見えてきた。
しかし、わが福島においては、放射能の蝕みが深まり、復興は遠のくばかりだ。
地震と津波は「天災」。一方、原発事故は、明らかに「人災」だ。うそにうそを重ねた罪は重い。
天災の地では、人々はたくましく立ち直ろうとしている。しかし、人災の地では復興どころはない。人の営みさえ拒まれている。
◇
浜通り地区勤務だった20年ほど前のこと。チェルノブイリの原発事故から逃れて、ベラルーシの子どもたちがいわき市の山間部に療養に訪れた。当時、8歳から10歳くらいの子どもたち、計10人ほどだった。引率者の名前だけ記憶している。ヴィタリー・ザイコさん。
みな被曝地域に住んでいたということだった。林の中の手作りのブランコやシーソーで楽しそうに遊んでいた写真を撮らせてもらった。白い肌に輝く笑顔。美しい子どもたちだった。半年ほど滞在して故郷に戻った。
何年か後、子どもたちのホームステイ先となった家庭に子どもたちの消息を聞きにいった。「みな15歳までは生きられなかった」と聞いた。ベラルーシに帰ってから間もなく、みなが白血病か甲状腺異常だったらしい。
事故と病気との因果関係の立証や、事故の責任論など、そんなことは後回しでもいい。
子どもたちが無事に生きていくにはどうすればいいのか。私のこれからの人生では、そのことに特段に執着したい。
◇
以下は、私自身の「震災記」。
地震の日は幸運にも休日だった。職場のある福島市ではなく、住んでいる郡山市にいた。家の近くの小学校に息子を迎えに行き、その日のうちに、いわき、双葉の家族の無事を確認し、夜には私と妻と息子と3人が一緒になれた。
家の中はめちゃめちゃ。ライフラインも断絶していた。12、13日の2日間は水集めとガソリン集めに奔走した。14日には、妻の実家の双葉町から高齢者5人が避難してきた。17日まで私と妻と息子と合わせて計8人で生活した。一時的には10人になった。
双葉の高齢者たちは、何も持たずに避難してきた。家は津波で流された。職場もない。子どもたちは通う学校もない。地震が起きたときに身に着けていたもの以外は何もなかった。
閉口したのは「お薬手帳」だった。日常の服用薬も持って来れなかったので、高齢者たちを郡山市で一番大きな病院に連れて行った。しかし、病気はわかっても薬の種類や分量が分からないので処方できないといわれた。高齢者にとってはお薬手帳がすごく大切なのだと思い知らされた。
18日は高齢者のうち3人を東京へ、19日には残り2人を喜多方市に避難させた。自分の実家のいわきの親は、申し訳ないが同居中の姉に任せっぱなしにした。
◇
あっという間、というのが偽らざる実感だ。
きょうは4月4日。現在、私は福島市の単身アパートにいる。
双葉の親せきたちは、何度かの避難所移動を重ねたのち、現在は喜多方市や東京にいる。妻と息子も喜多方。妻は公務員なのでこんな時こそ公の奉仕者にならなくてはいけない。喜多方市から三春町まで毎日通勤している。
姉は母を連れて一時避難していた東京からいわき市に戻り、準公務員としての仕事をこなしている。母親は東京の大学に在学中の姪のアパートにお世話になっている。
◇
あの日のあの時刻から、多くのことが変わってしまった。
しかし、この呪わしい災害は、一方では、学びの機会ともなってくれた。
食べ物や水の有り難さ、ものを大切にする心。なにより家族の大切さを教えてくれた。
ともかく、失ったものを惜しむ時間がない、というのが被災者の実感だ。しばらくは、失ったものは忘れ、前を見て歩むことしかできない。
◇
以上までを、4月4日に書いた。
今日は4月11日。あの日からちょうど1ヶ月。夕方から大きめの余震が続いている。
きのう、東京に避難していた母親がいわきに帰ってきた。きょうは、息子の小学校の入学式と始業式が行われた。
夕方の大きめの余震のあと、また電話が通じなくなった。
しばらくして連絡がついた母親も息子も、声に張りがあった。
4月4日の段階では、子どもにはどこか安全な場所で成長してほしいと思った。しかし、母親と息子の元気な声を聞いた今は、少し考えが変わった。
世界でも稀有な不幸に見舞われている、この「FUKUSHIMA」。今後の経済の混乱をも考えると、これからこそが、さらなる「FUKUSHIMA」の混沌だと思われる。
ただ、息子には、この「FUKUSHIMA」を見つめながら、成長していってほしいと思う。この苦しみは、得難い経験ではないか。
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