まちみちふうけい

間もなく10年目も通過点

No.696 阪急ブレーブスの時代

2017-03-16 10:23:12 | 日記
おはようございます。





現在、神戸までの道程として阪急神戸線各駅巡りをお送りしているわけですが、前回は西宮北口駅を通り過ぎました。西宮北口駅と言うと思い出すのがこれ↓↓↓




今にして思うと何か凄い光景にも見えますが、大手の私鉄でこんなアクロバット的なことが当たり前の様に行われていました、自分(一人称)もこの光景は実際に見たことがあったのでよく覚えています。このダイヤモンドクロスが廃止されたのが1984年、奇しくもこの年は阪急ブレーブスが球団の歴史としては最後の優勝を果たした年、球団がなくなってしまうのはその4年後と言うことになるのですが、この頃はそんなことが起こるなんて夢にも思いませんでした。




球団がなくなった後も駅のすぐ横に残っていた西宮球場、自分(一人称)が初めてプロ野球観戦したのがこの球場でした。野球が行われなくなった後でも競輪やアメフトなどが行われていた球場も2002年に廃止、その跡地は今は大型の商業施設となってしまいました。↓↓↓






各駅巡りの最中にこの場所がどうなってしまったのかと思い立ち寄って見たのですが、円さが特徴的な球場がカクカクなビルになってしまい、外観を見ただけではここに球場があった痕跡もほとんど見られなく寂しい気持ちになってしまった。そんなに多くはなかったが何度か見に来たことがある球場、ナイターの時には近鉄電車の最終の時間を気にしなければならなくいつも7回くらいで帰らなければならなかった。一時代を築いた球団も球場もなくなってしまい思い出に語られることもほとんどなくなってしまったが、自分(一人称)が野球を知って初めてファンになったのがこの阪急ブレーブス、ちょっと語らせてもらおうかなと思います。




小学生の頃は野球はテレビ中継で見ることはあっても細かいルールや球団も巨人か阪神しか知らなかった、アニメの『巨人の星』や『侍ジャイアンツ』は見ていたが野球そのものには興味はなかった。ある日友人から阪急ブレーブスのファンになったと言う話を聞いて、それに釣られるような感じで自分(一人称)もそのチームに興味を持つようになった、とは言ってもパ・リーグの試合はテレビでは週末にほんのちょっと中継があるだけ、ラジオもほとんどが阪神(T)戦で新聞のラジオ欄で中継があるのを調べて、聞こえにくい周波数にダイヤルを合わせて雑音が混じる中での中継に耳を傾けていた。土曜日の午後は吉本新喜劇、『モーレツしごき教室』が終わると8チャンネルでパ・リーグアワー、ここでは大概阪急(B)の試合をやってくれていて、いつもそれを楽しみに見ていた記憶がある。


昭和50年代前半は阪急ブレーブスの黄金時代、昭和50年には初めての日本一、自分(一人称)がファンになったのはその翌年から。2年連続リーグ優勝を果たして日本シリーズはこれまで5度戦って一度も勝てなかった巨人(G)が相手、阪急が3連勝して大手をかけた後、今度は巨人が3連勝、何か「巨人はロッテより弱い」と言ったあのシリーズを思い出しますねえ~、と思ったら阪急が3連勝した後にそれと同じことを言った人がいたらしい↓↓↓



どうやらこの人らしいとのことだが、今も昔も変わらずおもろいオッサンだったと言うことでしょうか。話は逸れるが世界の盗塁王リッキー・ヘンダーソンが憧れの福元氏に会えると楽しみにしていたところ、目の前に現れたのは浪速のオッサン、「これ、お土産」と無理矢理渡して世界の盗塁王は目が点になってしまったとか。ちなみにこの日本シリーズの時に引き合いに出したのが「最下位の近鉄(Bu)」だったが、近鉄はこの年4位だったとのことで、この頃から言うことも適当な人だったのでしょう。第6戦は阪急が前半まで7-0で勝っていたのを巨人が後半逆襲して8-7と大逆転、過去のシリーズで一度も勝てなかった相手、さすがと言うか呪縛というものがあったのでしょうか。しかし第7戦では一旦リードされた試合を終盤↓↓↓



風貌に特徴があった森本選手が逆転ホームラン、その後には福本もダメ押しのホームランで阪急が6度目の挑戦で初めて巨人を破って日本一となった。MVPは福本が獲得と言うことでおいしいところはこのオッサンが全部持って行ってしまったシリーズでもありました。そう言えば日本一になった後に梅田の阪急百貨店に優勝セールスに言ったなあ、あの時の賑わいは物凄かったなあ・・・まさに「阪急ですから~」と言う時代だったんでしょう。


翌年も阪急は優勝、そして巨人を2年連続で破って3年連続の日本一、この頃が阪急ブレーブスの黄金時代と言った感じでした。この頃のパ・リーグと言うと、南海ホークスには金城、近鉄バファローズぬは鈴木、日本ハムファイターズには高橋直樹、ロッテオリオンズには村田兆治、クラウンライターライオンズには東尾と絶対的なエースがいたが、阪急と言うとやはりこの人↓↓↓




もうお馴染みのアンダースロー、山田久志、自分(一人称)が一番大好きな選手でした。昭和51年には26勝もしているんですが、この頃は現在よりも試合数が少なくて130試合、その中で今では考えられないくらいの勝ち星数です。最初はグッと伸びて、その後状態をグッと曲げて地上すれすれから放たれるボール、きれいなフォームは今でもその姿が思い出せるくらい、この頃にも他にも足立や金城と言った下手投げの投手はたくさんいましたが、アンダースローと言うと山田、と言うのがもう代名詞になっていました。





黄金期を支えた選手は他にもいっぱいいます。山口高志、稲葉光雄、加藤秀司、島谷金二、マルカーノ、高井保弘・・・当時の選手名が次から次へと思い浮かんできます。しかしそんな黄金時代にも終わりは来ます、そして自分(一人称)の気持ちも離れて行く時が、それが4年連続リーグ優勝を果たした後の日本シリーズ。相手はこれが初優勝だったヤクルトスワローズ、当時は勢いもあったせいか皆ヤクルトを応援していたが、自分(一人称)は阪急の強さを信じていた。そして3勝3敗で迎えた第7戦・・・詳しいことは各自で調べてみてください、あの一件は阪急ブレーブスを応援していた自分(一人称)にとっても悔しいと言う気持ちと、何か、何かなあ~と言う気持ちがあって、結局これを機に阪急ファンをやめることになってしまった。まあ調子のいいことだとも思われそうだが、こうやって文章を書いてたらやっぱり懐かしい気分になってくるもんです。球数制限とか休養とかコリジョンルールとか、今とは違ってこの頃はプロ野球も大らかな時代だったんでしょう、見ていて楽しかったもんね。そして時代は近鉄(Bu)と西武(L)が血で血を争う死闘の時代へと移り変わっていく・・・、と言うことで次回もお付き合いよろしくお願いします。         まちみち