湖のほとりから。

花と空と心模様を写真と詩と文に託して。

お釈迦様の教え〜友達より〜

2019-08-06 15:50:00 | コラム
私の友達に
時折、お釈迦様(ブッダ)の
おはなしを書いている方がいて
その時々
胸にグッとくる時があります


先日
また、その彼女のブログには
ブッダのお話。

ちょうど
自我を責める人がいて
何を責めることがあるのでしょうと

時間を巻き戻しできるはずもなく
その時々を反省したのちに
『今』があるのなら
もう責めることも
否定することもいらないのだと
私は思うわけです。

その自分の時々を
選択したのは自分なのですから

あとは
自分はどこに立って見るか、、。


うちの亡くなった母が
ブッダの教えを知ってるはずもないのだけど
私が苦境に立ったとき
必ず、かけてくれていた言葉がある

『ええかー
ようききゃー、この世で起こったことは必ずこの世で解決するようになってある。そやから、心配せんでええ。自分を責めたらあかんのやで。』


そんな言葉を思い出したのです。
友達のブログより拝借してきました。



『ブッダの教え一日一話』
(アルボムッレ・スマナサーラ著)より



すべてのものごとは

起こるべくして

起こるのです。


ところが

自我は

ものごとを

「起こさせよう」

とか

「止めさせよう」

とします。


そこに

問題が

起きるのです。


自分という

主観を

消してみれば

ものごとが

客観的に

みえてくるのです。


そこにあるのは

ただ

行為だけ

ですから

何のこともなく

整理整頓できます


客観的になった人にとって

解決できないことは

何ひとつ

ない

のです。


だから

人は

主観を捨てて

客観的になるべき

なのです。

母の言葉とは
切り口は違うけれど
言いたいことは近いのだと思うのです。



自分のこころを客観的にして
謙虚な位置で、前を向けば
解決できるんだと、、、。


そういえば
お釈迦様は、菩提樹の下で
悟りを開かれたとあります。

菩提樹は探せないけれど
お釈迦様のように悟ることはできなくても、幸せになるために
お釈迦様の言葉が残されているのなら、その言葉は、幸せの願いにつうじているのだと思う。


宗教を超えた部分
人として。










赤い月におもふ

2019-08-06 09:06:00 | ポエム
爪痕に
血が滲んだように
のぼりかけなのか
くだりかけなのか

わからないような赤い月

見上げては
ハッと我にかえる

見上げては
ウッと我にきく

誰かのこころに
痛い爪痕を残したままかな

私のこころが
痛い爪痕が残ってるように


生きていれば
傷ついて
傷つけてしまうのは
互いに仕方ない話なのだけど


できれば優しく甘く
残したいものを


笑いながら
そうだったねーって
言える日を

ああ、そうだったんだゎーって
思える日を