増田カイロプラクティックセンターの近況レポート

筋骨格・神経・アレルギー(NAET)・感情の統合療法。
増田裕D.Cのブログ

2006年1月19日 感情の分子

2006-01-19 23:14:09 | 近況
増田院長記

●Candace Perth, PhDの書いた「感情の分子」という本がある。おそらく未邦訳である。もう出版されて10年近い。この女性分子生物学者は脳内快楽物質であるエンドルフィン(モルヒネ様物質)のレセプターを発見した人である。
 ここで女史は物質(ハード)と情報(ソフト)の関係を問題にする。今日医学の世界では、モルヒネが身体に喜悦をもたらすことが知られている。つまり、物質がある感情を生み出す。物質ー情報の流れである。しかし、問題なのは、何かとても嬉しいことがあると、体内でエンドルフィンが分泌されることがわかっている。これは物質の観点から見ると、無から有が生まれる。感情が物質を分泌する。つまり、情報ー物質の流れである。
 そしてもっと重要なのは、エンドルフィンのレセプターが感情中枢の大脳辺縁系に多くあるのは否定できないが、身体のどこの部位にもあることである。つまり、嬉しい時には全身が嬉しいのである。
 そして、女史は従来特定臓器にしかないと思われていた物質、たとえば膵臓のインスリンが脳にもあることや、これまで脳にしかないと思われていた物質が、脳以外の身体にもあることを知るようになる。
 これからは推論になるが、おそらく人間のいろんな感情にはある特定の分子が全身に分泌されるのであろう。感情が身体内の化学物質の分泌と循環に密接な関係があることを示した点で同書は画期的である。
 ストレスによる感情のブロックはこの身体内の化学物質の分泌を低下させ、その循環を滞留させてしまう。ストレスが病気を誘引するメカニズムがここに示唆されている。

●この人も非常に啓発された1人である。しかし、このところ忙しくてその後の著作をフォローしていなかったので、アマゾンを見て数冊注文した。また新しい著作にめぐり合えるのが待ち遠しい。"Energy Medicine: The Scientific Basis of Bioenergy Therapiesの名著に序言を寄せてもいる。当代随一のエネルギー医学の基礎的視点を提供している人で、あるセミナーのゲストとして招かれていた時のスピーチを聞いて、非常に気さくな人であるとの印象を受けた。

●ところで、患者が来る前から診断が決まっている流派がいる。映画カンゾー先生はその類である。なんでも「それは肝臓だ!」と言うので、その綽名がついた。カイロプラクティックやその周辺にもこの類がたくさんいる。思い浮かぶままに書くと、BJなどの上部頚椎派(アトラス先生)、いやいや背骨の土台である仙骨重視のローガンベーシック(仙骨先生)、いや仙骨を支えているのは仙腸関節であると骨盤を重視する派(骨盤先生)、あるいは頚椎5番を重視するピアーズ(頚椎先生)、TMJがすべてであるとする咬合派(顎先生)、いやいやもっとベーシックな足の回外がすべての原因であるする下肢派(足先生)、あるいは椎間板であると考えるDisk派(椎間先生)、腰椎(L5)番派(腰椎先生)、あるいは頭蓋派(クレニオ先生)などなど、列挙に暇がないくらいだ。
 まず、それぞれが重要なことは間違いないが、だからと言って患者が来る前から決まっている診断なんて診断の名に値しない。診断は医師しかできないと言うのであれば、この言葉でなくて「分析」でも「見立て」でもなんでもいい。
 これがすべてだというのは極端な特定病因論であり、複雑な身体の機能を見るにはあまりに不適切な見方である。いろいろ複合的な要因がどうひとつの症状と結びつくのか、その重層的な分析がない。みんな単線的な1次関数である。
 これでは複雑な現実を解くことは出来ない。複雑になればお手上げである。
 非線形関数の問題の解を求めるようなアプローチをしないと、これからの代替医療は現実の困難さに太刀打ちできないだろう。

●さて、本日のドラッカーの金言。「社会の目的」。副題は「位置づけと役割をもたなければ、見捨てられし者、根無し草である」。ACTION POINTは「退職した人にメールを送ったり、一緒に昼食をとってください」である。
 
 ここでちょっと大胆なアピールをしたいと思うのですが、当オフィスは全員が身を粉にして患者サービスのために奮闘しております。現在のサービスの質を維持するためには、何らかのサポートを必要としています。退職した方でオフィスのボランティアとして患者ケアの手伝いをしたいという方がおられたら、一報をください。

●本日の7つの習慣名言は成長の連続体について。このなかで、「相互依存状態では「私たち」というパラダイムになる。私たちが才能と能力を合わせれば、もっと素晴らしい結果を出すことができる、ということである」と述べられている。

もちろん引き算にしてはならない。しかも単純総和ではなく、掛け算に出来るか。これは人間関係の芸術である。

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