「今年の5月は涼しくていいなぁ・・・」なんてのん気に考えていたら、このところ急に暑くなってきた。
もう夏? ホント、春は短い。
そんな5月、季節に相応しくハツラツと生活している人もいれば、五月病に鬱々としている人もいるだろう。
特に、GW明けがキツかった人は多いのではないだろうか。
私の場合は“万年五月病”。
一年を通して、鬱々としていることが多い。
いいのか悪いのか、それに慣れてしまっている(回りはいい迷惑だろうけど)。
ただ、最近、特に不眠症がヒドくて弱っている。
気はすすまないけど、そろそろ病院に行かないとマズイかもしれない。
そんなことさておき、各人、このGW、どのように過ごしただろうか。
遠くへ旅行に出かけた人、近場のレジャーで済ませた人、故郷に帰省した人、私と同じく仕事をしていた人、色々いただろう。
東北の被災地にボランティアに出掛けた人も多くいたみたい。
自分のお金と自分の時間と自分の身体を人のために使うなんて・・・
「野次馬の物見遊山」などと斜めに見る輩(私)がいないわけではないけど、とにかく、その行動は尊いものだと思う。
そして、それは、帰るべき故郷を津波で失い、帰るべき故郷を放射性物質によって奪われた人々の大きな助けになっているものと思う。
そう思いつつも、私の場合、「自分も行こう」ということにはならない。
会社の一員、社会の一員としての責任や役割を放り出してまでは行けない。
だから、ボランティアに行かないことに迷いや後ろめたさはない。
ただ、「俺みたいな人間は、イザというとき、誰も助けてくれないかもな・・・」といった思いが過ぎったりはする。
が、なにはともあれ、自分の中にある薄情な野次馬根性には気をつけたいものである。
特掃の依頼が入った。
依頼の主は、アパートの大家を名乗る老年の女性。
「住人が部屋で孤独死」「悪臭がヒドイ」「火葬のため、遺族が地方から東京に来ている」「遺族が東京にいる間に来てほしい」とのこと。
話の中身から、早急に現場に行く必要性を感じた私は、女性と話しながらその日の予定を組み替えていった。
出向いた現場は、都心の一等地。
ただ、車も入れない狭い路地奥で、かなりの老朽アパートだった。
約束の時刻ピッタリに参上した私を出迎えたのは、大家女性と故人の弟である遺族男性。
そして、“関係者or部外者”、どちらともとれるような同アパートの住人三人(初老の男女)。
その5人がアパートの前に立ち、時折、笑顔を浮かべながら話に花を咲かせていた。
私は、その輪に入るのは部屋を見た後が適当と判断。
挨拶を簡単に済ませて、「とりあえず、先に見てきます」と玄関を入った。
建物は、外見、一戸建風。
「アパート」というより「下宿」と言ったほうがしっくりくる佇まい。
一階は小さな共用玄関とトイレ、そして、四畳半の居室が二室。
狭い階段を上がった二階には、同じく四畳半の居室は三室。
故人の部屋は、二階の角にあった。
私の鼻は、階段の途中から嗅ぎなれた異臭を感知。
そのまま進み、部屋のドアを開けると、何匹ものハエと悪臭が噴出。
一瞬、それにたじろぎながらも、私は、更に前進。
眼に飛び込んでくる“非日常”を受け止めながら歩を進めた。
部屋の中央には、熟成された汚腐団・・・
床には無数のウジが徘徊・・・
空には無数のハエが乱舞・・・
私は、それらに邪魔されながらも周囲の観察を推し進めた。
部屋は、狭い四畳半。
小さな流し台と押入れがついているのみ。
トイレは共同、風呂はなし。
もちろん、ベランダの類もなし。
家財生活用品の量は多めだったが、一点に立ってグルリと見回すだけで、全部が見分できる程度のものだった。
一つ一つの部屋に公共料金のメーターはついておらず。
全体の費用を、住人が割り勘する仕組みになっていた。
廊下・階段・トイレなどの共有部分は、皆が持ちまわりで清掃。
どこかの学生寮のように、住人にはそのルールが浸透しており、半共同生活のようなスタイルになっていた。
住人はすべて中高年齢者で、長く居住している人ばかり。
一番短い人でも二十数年の居住歴をもっていた。
そんな具合だから、住人達はお互いに顔見知り。
「協力しあっても干渉しあわない」
「親切にするけど御節介は焼かない」
「探られたくない腹は、人に対しても探らない」
「ハードは不備でもハートがある」
住人たちはお互いに適度な距離感を保ちながら、円満にアパート生活を送っているのだった。
故人は、地方出身。
大学入学と同時に上京。
同時に、現場となったアパートに入居。
大学を卒業しても故郷には帰らず東京の会社に就職。
住まいは変えず、このアパートにそのまま居住。
以降、三十数年、ずっとこの部屋で生活していた
転職歴はあったが、仕事もせずブラブラしたりするようなことはなかった。
家賃の滞納がないのはもちろん、スポーツクラブに通ったり酒を飲んだり、趣味を楽しんだりするくらいの経済力はもっていた。
そんな故人に対し、故郷の親兄弟は、家を買うことや、結婚を考えることを促した。
しかし、当の本人は、興味なげに聞き流すばかり。
結局、そのまま結婚適齢期は過ぎ去り、引っ越すきっかけを見つけられないまま時は過ぎていった。
晩年、旅行関係の仕事をしていた故人は、普段から長期出張が多かった。
一週間や二週間、部屋を空けることも頻繁にあり、故人の部屋に人の気配がなくても不審に思わず。
部屋の前に異臭が漂いはじめたときも、ゴミの放置を疑ったくらい。
結果、家族的なアパートでありながら、故人は、酷く腐乱するまで発見されなかったのだった。
「いい人だった!」
「亡くなってるなんて、考えもしなかった!」
「どこか具合でも悪くしてたのかな?」
「もっと早く気づいてあげられてればね・・・」
「なんだか、また戻ってくるような気がする・・・」
大家女性と住人は、口々にそう言った。
故人の死を悼んでいることに違いはなかったが、それはまた、恐縮・消沈する遺族男性に対する心遣いのようにも見え、人の温かさが感じられるものだった。
また、
「作業にあたってご迷惑をおかけすることがあると思いますけど・・・」
と詫びる私に対しても、
「大変な仕事だね・・・気にしなくていいから、遠慮なくどんどんやって!」
と気持ちよく返してくれた。
そして、そんな人間模様に、この老朽アパートの居心地のよさが垣間見えた。
大学に入学した当初、このアパートとこの街は、故人にとって馴染みのない場所だっただろう。
それが、年月とともに故郷のようになり、晩年には生まれ育った故郷よりも愛着のある場所、居心地のいい場所になっていたのではないかと思った。
そして、本望の死ではなかったかもしれないけど、そんな部屋が最期の場所になったことは決して悪いことではなかったのではないかと思った。
数日後、作業を終えた部屋からは、故人が生きていた跡と故人が死んだ痕はなくなった。
ただ、何かの余韻は残っていた。
それが何なのかはわからなかった・・・
先入観からくる錯覚だったのかもしれなかった・・・
けど、私に感じられる何かがあった。
身体と家財を残して故人はどこにいってしまったのか・・・
まったくの無になったのか・・・
死は無なのか・・・
何も残らないのか・・・
魂や霊といったものはないのか・・・
私は、肉が土に還るのと同じように、魂もどこかに帰ったのではないか・・・
そんなことを頭に廻らせ、死の現場であるからこそ受け取れるホッとするような何かを噛みしめた私だった。
公開コメント版
もう夏? ホント、春は短い。
そんな5月、季節に相応しくハツラツと生活している人もいれば、五月病に鬱々としている人もいるだろう。
特に、GW明けがキツかった人は多いのではないだろうか。
私の場合は“万年五月病”。
一年を通して、鬱々としていることが多い。
いいのか悪いのか、それに慣れてしまっている(回りはいい迷惑だろうけど)。
ただ、最近、特に不眠症がヒドくて弱っている。
気はすすまないけど、そろそろ病院に行かないとマズイかもしれない。
そんなことさておき、各人、このGW、どのように過ごしただろうか。
遠くへ旅行に出かけた人、近場のレジャーで済ませた人、故郷に帰省した人、私と同じく仕事をしていた人、色々いただろう。
東北の被災地にボランティアに出掛けた人も多くいたみたい。
自分のお金と自分の時間と自分の身体を人のために使うなんて・・・
「野次馬の物見遊山」などと斜めに見る輩(私)がいないわけではないけど、とにかく、その行動は尊いものだと思う。
そして、それは、帰るべき故郷を津波で失い、帰るべき故郷を放射性物質によって奪われた人々の大きな助けになっているものと思う。
そう思いつつも、私の場合、「自分も行こう」ということにはならない。
会社の一員、社会の一員としての責任や役割を放り出してまでは行けない。
だから、ボランティアに行かないことに迷いや後ろめたさはない。
ただ、「俺みたいな人間は、イザというとき、誰も助けてくれないかもな・・・」といった思いが過ぎったりはする。
が、なにはともあれ、自分の中にある薄情な野次馬根性には気をつけたいものである。
特掃の依頼が入った。
依頼の主は、アパートの大家を名乗る老年の女性。
「住人が部屋で孤独死」「悪臭がヒドイ」「火葬のため、遺族が地方から東京に来ている」「遺族が東京にいる間に来てほしい」とのこと。
話の中身から、早急に現場に行く必要性を感じた私は、女性と話しながらその日の予定を組み替えていった。
出向いた現場は、都心の一等地。
ただ、車も入れない狭い路地奥で、かなりの老朽アパートだった。
約束の時刻ピッタリに参上した私を出迎えたのは、大家女性と故人の弟である遺族男性。
そして、“関係者or部外者”、どちらともとれるような同アパートの住人三人(初老の男女)。
その5人がアパートの前に立ち、時折、笑顔を浮かべながら話に花を咲かせていた。
私は、その輪に入るのは部屋を見た後が適当と判断。
挨拶を簡単に済ませて、「とりあえず、先に見てきます」と玄関を入った。
建物は、外見、一戸建風。
「アパート」というより「下宿」と言ったほうがしっくりくる佇まい。
一階は小さな共用玄関とトイレ、そして、四畳半の居室が二室。
狭い階段を上がった二階には、同じく四畳半の居室は三室。
故人の部屋は、二階の角にあった。
私の鼻は、階段の途中から嗅ぎなれた異臭を感知。
そのまま進み、部屋のドアを開けると、何匹ものハエと悪臭が噴出。
一瞬、それにたじろぎながらも、私は、更に前進。
眼に飛び込んでくる“非日常”を受け止めながら歩を進めた。
部屋の中央には、熟成された汚腐団・・・
床には無数のウジが徘徊・・・
空には無数のハエが乱舞・・・
私は、それらに邪魔されながらも周囲の観察を推し進めた。
部屋は、狭い四畳半。
小さな流し台と押入れがついているのみ。
トイレは共同、風呂はなし。
もちろん、ベランダの類もなし。
家財生活用品の量は多めだったが、一点に立ってグルリと見回すだけで、全部が見分できる程度のものだった。
一つ一つの部屋に公共料金のメーターはついておらず。
全体の費用を、住人が割り勘する仕組みになっていた。
廊下・階段・トイレなどの共有部分は、皆が持ちまわりで清掃。
どこかの学生寮のように、住人にはそのルールが浸透しており、半共同生活のようなスタイルになっていた。
住人はすべて中高年齢者で、長く居住している人ばかり。
一番短い人でも二十数年の居住歴をもっていた。
そんな具合だから、住人達はお互いに顔見知り。
「協力しあっても干渉しあわない」
「親切にするけど御節介は焼かない」
「探られたくない腹は、人に対しても探らない」
「ハードは不備でもハートがある」
住人たちはお互いに適度な距離感を保ちながら、円満にアパート生活を送っているのだった。
故人は、地方出身。
大学入学と同時に上京。
同時に、現場となったアパートに入居。
大学を卒業しても故郷には帰らず東京の会社に就職。
住まいは変えず、このアパートにそのまま居住。
以降、三十数年、ずっとこの部屋で生活していた
転職歴はあったが、仕事もせずブラブラしたりするようなことはなかった。
家賃の滞納がないのはもちろん、スポーツクラブに通ったり酒を飲んだり、趣味を楽しんだりするくらいの経済力はもっていた。
そんな故人に対し、故郷の親兄弟は、家を買うことや、結婚を考えることを促した。
しかし、当の本人は、興味なげに聞き流すばかり。
結局、そのまま結婚適齢期は過ぎ去り、引っ越すきっかけを見つけられないまま時は過ぎていった。
晩年、旅行関係の仕事をしていた故人は、普段から長期出張が多かった。
一週間や二週間、部屋を空けることも頻繁にあり、故人の部屋に人の気配がなくても不審に思わず。
部屋の前に異臭が漂いはじめたときも、ゴミの放置を疑ったくらい。
結果、家族的なアパートでありながら、故人は、酷く腐乱するまで発見されなかったのだった。
「いい人だった!」
「亡くなってるなんて、考えもしなかった!」
「どこか具合でも悪くしてたのかな?」
「もっと早く気づいてあげられてればね・・・」
「なんだか、また戻ってくるような気がする・・・」
大家女性と住人は、口々にそう言った。
故人の死を悼んでいることに違いはなかったが、それはまた、恐縮・消沈する遺族男性に対する心遣いのようにも見え、人の温かさが感じられるものだった。
また、
「作業にあたってご迷惑をおかけすることがあると思いますけど・・・」
と詫びる私に対しても、
「大変な仕事だね・・・気にしなくていいから、遠慮なくどんどんやって!」
と気持ちよく返してくれた。
そして、そんな人間模様に、この老朽アパートの居心地のよさが垣間見えた。
大学に入学した当初、このアパートとこの街は、故人にとって馴染みのない場所だっただろう。
それが、年月とともに故郷のようになり、晩年には生まれ育った故郷よりも愛着のある場所、居心地のいい場所になっていたのではないかと思った。
そして、本望の死ではなかったかもしれないけど、そんな部屋が最期の場所になったことは決して悪いことではなかったのではないかと思った。
数日後、作業を終えた部屋からは、故人が生きていた跡と故人が死んだ痕はなくなった。
ただ、何かの余韻は残っていた。
それが何なのかはわからなかった・・・
先入観からくる錯覚だったのかもしれなかった・・・
けど、私に感じられる何かがあった。
身体と家財を残して故人はどこにいってしまったのか・・・
まったくの無になったのか・・・
死は無なのか・・・
何も残らないのか・・・
魂や霊といったものはないのか・・・
私は、肉が土に還るのと同じように、魂もどこかに帰ったのではないか・・・
そんなことを頭に廻らせ、死の現場であるからこそ受け取れるホッとするような何かを噛みしめた私だった。
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