「殻を剥くのを面倒臭がった!?」
「おでんの玉子に殻?」
私は、思わず手を止めて奥さんの顔を見た。
「おでんの玉子って殻つきだっけ?」
「アレ?そうだっけ?」
私は、自分の常識に自信がなくなってきた。
ことの真相を確かめたかったが、仕事には関係ないことだし、私はそんな質問ができるような立場ではない。
でも、奥さんの発言が気になって仕方がなかった。
すると、私の疑念を察するかのように他の親戚が声をだした。
「玉子の殻を剥くってどういうこと?」(親戚)
「食べる時に殻を外すことだよ」(遺族)
「おでんの玉子って、普通は殻はついてないだろ?」(親戚)
「そう?・・・」(遺族)
「殻つきの玉子なんて変だよ!」(親戚)
「なんで?」(遺族)
「ひょっとして、生玉子をそのままおでん鍋に入れる訳?」(親戚)
「そうだけど・・・」(遺族)
「え゛ーっ!?まさか!」(親戚)
「何かおかしい?」(遺族)
「おかしいに決まってんだろ!」(親戚)
この辺りから雰囲気がピリピリし始めた。
だんだん感情的になってくる両者、気マズそうに黙る外野。
「第一、玉子の殻は不衛生だろ」(親戚)
「洗ってるだろ・・・出荷するときに・・・」(遺族)
「それに、殻つきじゃ味も浸みないだろ?」(親戚)
「少しは浸みるよ」(遺族)
「え!?浸みるの?でも、うまくないだろ?」(親戚)
「うまいよ!」(遺族)
「どちらにしろ、その食べ方はおかしい!」(親戚)
「いいんだよ!うちはずっとそうやってきたんだし、そうやってる人だっているはずだし」(遺族)
「いない!いない!コンビニのおでん玉子は殻つきか?」(親戚)
「買ったことないから知らない・・・」(遺族)
ヒートアップしていく言い合いを、
「この話題は、この辺でやめてくれないかなぁ」
と、私は頭の中でボヤきながら黙って聞いているしかなかった。
どう考えても、おでん玉子は殻がついてない方が一般的。
世間を味方につけた親戚は更に追い撃ちをかけていき、次第に遺族の方が劣勢になってきた。
本来は悲哀に満ち、厳粛なはずたった納棺式が、既に一触即発の緊張状態に変わっていた。
私は、この小競り合いが自分に飛び火してくるのを恐れた。
そして、その恐れていたことが起こった。
「貴方は、どう思います?」
普段から、臨機応変なアドリブは利く方だと自認している私だったが、この時は言葉に詰まった。
中途半端なことを言っても納得してもらえないだろうし、偏った意見は自分自身の立場を危うくしてしまう。
いっそのこと、「おでん玉子は嫌い」と言ってしまおうかと思ったけど、故人を否定するみたいでこれも危険だと判断。
結局、
「おでんは作ったことないものですから・・・」
「それに、軽い玉子アレルギーがあるもので・・・」
と、応えるに留まった。
(心情的には、ホントに玉子アレルギーになりそうだった。)
食文化や食習慣が国や地域によって異なるのは自然なこと。
狭い日本でさえ、地方ごとに多種多様である。
だから、各家庭で食習慣が違っていても自然なことで、本来はそんなにムキになる必要もないはず。
なのに、こんな議論になってしまう。
やはり、食い物の怨みツラミは恐ろしい。
「おでん玉子を殻つきのまま煮たって、誰にも迷惑かけてないだろ!」(遺族)
「・・・」(親戚)
結局、故人の偲び、冥福を祈る厳粛さはどこかへいってしまい、淡々と納棺式は終わった。
その後、柩におでんが入ったかどうか、玉子に殻がついていたかどうか、私は知らない。
単純に、おでん玉子は美味しい。
玉子は物価の優等生だから、財布にも優しい。
なのに、私も子供の頃は故人と似たような境遇で、「二個まで」と決められていた。
親からは、
「三個以上食べると体に悪い」
と、説得力のない説明を聞いた憶えがある。
栄養価が高いから?コレステロールの問題?
なんでなんだろう。
この記事を書いていると、何だかおでんが食べたくなった。
あと、殻がついたまま煮られた玉子も。
殻がついたままでも少しは味が浸みるなんて、私には新しい常識だ。
一体、どんな味になるんだろう。
それにしても、人間というヤツはやたらと人の殻を壊したがるわりには自分の殻を破りたがらない生き物だね。
人間アレルギーがある私は、そう思う。
公開コメントはこちら
特殊清掃プロセンター
http://www.omoidekuyo.com/
「おでんの玉子に殻?」
私は、思わず手を止めて奥さんの顔を見た。
「おでんの玉子って殻つきだっけ?」
「アレ?そうだっけ?」
私は、自分の常識に自信がなくなってきた。
ことの真相を確かめたかったが、仕事には関係ないことだし、私はそんな質問ができるような立場ではない。
でも、奥さんの発言が気になって仕方がなかった。
すると、私の疑念を察するかのように他の親戚が声をだした。
「玉子の殻を剥くってどういうこと?」(親戚)
「食べる時に殻を外すことだよ」(遺族)
「おでんの玉子って、普通は殻はついてないだろ?」(親戚)
「そう?・・・」(遺族)
「殻つきの玉子なんて変だよ!」(親戚)
「なんで?」(遺族)
「ひょっとして、生玉子をそのままおでん鍋に入れる訳?」(親戚)
「そうだけど・・・」(遺族)
「え゛ーっ!?まさか!」(親戚)
「何かおかしい?」(遺族)
「おかしいに決まってんだろ!」(親戚)
この辺りから雰囲気がピリピリし始めた。
だんだん感情的になってくる両者、気マズそうに黙る外野。
「第一、玉子の殻は不衛生だろ」(親戚)
「洗ってるだろ・・・出荷するときに・・・」(遺族)
「それに、殻つきじゃ味も浸みないだろ?」(親戚)
「少しは浸みるよ」(遺族)
「え!?浸みるの?でも、うまくないだろ?」(親戚)
「うまいよ!」(遺族)
「どちらにしろ、その食べ方はおかしい!」(親戚)
「いいんだよ!うちはずっとそうやってきたんだし、そうやってる人だっているはずだし」(遺族)
「いない!いない!コンビニのおでん玉子は殻つきか?」(親戚)
「買ったことないから知らない・・・」(遺族)
ヒートアップしていく言い合いを、
「この話題は、この辺でやめてくれないかなぁ」
と、私は頭の中でボヤきながら黙って聞いているしかなかった。
どう考えても、おでん玉子は殻がついてない方が一般的。
世間を味方につけた親戚は更に追い撃ちをかけていき、次第に遺族の方が劣勢になってきた。
本来は悲哀に満ち、厳粛なはずたった納棺式が、既に一触即発の緊張状態に変わっていた。
私は、この小競り合いが自分に飛び火してくるのを恐れた。
そして、その恐れていたことが起こった。
「貴方は、どう思います?」
普段から、臨機応変なアドリブは利く方だと自認している私だったが、この時は言葉に詰まった。
中途半端なことを言っても納得してもらえないだろうし、偏った意見は自分自身の立場を危うくしてしまう。
いっそのこと、「おでん玉子は嫌い」と言ってしまおうかと思ったけど、故人を否定するみたいでこれも危険だと判断。
結局、
「おでんは作ったことないものですから・・・」
「それに、軽い玉子アレルギーがあるもので・・・」
と、応えるに留まった。
(心情的には、ホントに玉子アレルギーになりそうだった。)
食文化や食習慣が国や地域によって異なるのは自然なこと。
狭い日本でさえ、地方ごとに多種多様である。
だから、各家庭で食習慣が違っていても自然なことで、本来はそんなにムキになる必要もないはず。
なのに、こんな議論になってしまう。
やはり、食い物の怨みツラミは恐ろしい。
「おでん玉子を殻つきのまま煮たって、誰にも迷惑かけてないだろ!」(遺族)
「・・・」(親戚)
結局、故人の偲び、冥福を祈る厳粛さはどこかへいってしまい、淡々と納棺式は終わった。
その後、柩におでんが入ったかどうか、玉子に殻がついていたかどうか、私は知らない。
単純に、おでん玉子は美味しい。
玉子は物価の優等生だから、財布にも優しい。
なのに、私も子供の頃は故人と似たような境遇で、「二個まで」と決められていた。
親からは、
「三個以上食べると体に悪い」
と、説得力のない説明を聞いた憶えがある。
栄養価が高いから?コレステロールの問題?
なんでなんだろう。
この記事を書いていると、何だかおでんが食べたくなった。
あと、殻がついたまま煮られた玉子も。
殻がついたままでも少しは味が浸みるなんて、私には新しい常識だ。
一体、どんな味になるんだろう。
それにしても、人間というヤツはやたらと人の殻を壊したがるわりには自分の殻を破りたがらない生き物だね。
人間アレルギーがある私は、そう思う。
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