特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

肉野菜

2014-01-06 09:48:56 | 特殊清掃
2014年 謹賀新年。

この正月、多くの人が、美味しいものをたくさん食べ、美味しい酒をたくさん飲んだことだろう。
一年間の無病息災を願いながらも、暴飲暴食をしてしまう。
しかし、これもまた、正月の楽しみ。
私も、いつもよりはいいモノを食べ、酒もいつもよりは多めに飲んだ。
体にしがみついて離れないメタ坊も、楽しい正月を過ごせたことだろう。
しかし、正月が過ぎたらそんなことしてられない。
腹八分を心がけ、酒もほどほどにバランスのとれた食事をするのが、自分のためである。

9連休明けで、今日が仕事始めの人も多いみたい。
私の場合、例年通り、仕事納めは12月31日。
そして、仕事始めは1月2日(いきなりの特掃)。
運よく?元日の一日は休むことができた。
いつ鳴るかわからないため携帯電話を離すことはできなかったけど、出社は免れた。

昨年は、元旦から現場にでた私。
仕事を嫌がってはいけないのだけど、正直いうと、モノすごく嫌だった。
憤りにも似たストレスを、どこでどうやって吐き出せばいいのかわからず、ひたすら自制に努めるほかなかった。
大晦日の晩酌もテキトーに切り上げて就寝。
翌朝も早くから起きだして、シーンと静まり返る極寒の街に車を走らせた。
もちろん、私一人で。
それが一年を象徴する出来事のような気がして、妙な気分になったのをおぼえている。

私の性格は、「遅刻」というものを嫌う。
約束の時間に待たされるのも嫌いだけと、約束の時間に人を待たせるのはもっと嫌い。
だから、時間がゆるすかぎり、早め早めに行動を起こす。
このときも、「約束の時間に遅れてはいけない」と、早めに出発。
仕事に向かう身体と仕事に向かいたがらない心の対立に運転を乱されないよう気をつけながら、現場に向かって車を走らせた。

元旦早朝の道はガラ空き。
出発時刻も早かったことから、約束の時刻よりもかなり早く現場に到着。
日も日だから、依頼者に電話したところで、時間を繰り上げられる可能性は低い。
私は、約束の時刻まで、諦めて待機することにした。

私は、昔から、自分ばかりを可哀想がるクセがある。
「自分が誰よりも苦労して、自分が誰よりも大変な思いをして、自分が誰よりも頑張っている」ってな具合に。
もちろん、日本中・世界中の人達と比べてのことではなく、身の回りの人達と比べてのことだけど。
どちらにしろ、「健全な思考性」とは言えない。
しかし、それがわかっていても、この思考性はなかなか抜けない。
この朝も、「元旦早々こんな労苦に遭っているのは俺くらいのもんだよな」といった、ボヤキ気分が私を覆っていた。

年が明けて、私が初めて顔を合わせた人はその現場の依頼者。
が、そこには、めでたいことなんて何もなく、室内にはめでたくない光景が広がりばかり・・・
「明けましておめでとうございます」
なんて言える雰囲気はどこにもなかった。
それでも、時候のネタに触れないのも不自然なような気がした私は、
「今年になって初めて話す人は○○さん(依頼者)ですよ」
と、言ってみた。
しかし、依頼者は反応薄。
とても、余計なおしゃべりをする気分にはなれない様子。
私は、正月らしい趣もないまま、黙々と依頼された仕事をこなし、約束通りの成果をもって完了させた。

作業は、午前中のうちに終わった。
その日の予定はそれだけだった私は、そのまま帰途についた。
薄汚れた作業服を着たまま、よろしくないものを荷台に満載にして。
そんな私とは対照的に、街には、初詣や買物・レジャーに出かける人々が繰りだしていた。
皆がオシャレをして、幸せそうに、楽しそうに、晴れやかな笑顔を浮かべていた。
また、その中には、働く人達の姿があった。
あちこちの店の店員、トラックドライバー、タクシードライバー、新聞配達員、郵便配達員etc・・・
一人一人が、自分の役割をひたむきにこなす姿があった。
それは、私が抱いていた労苦への不満が、非常に自己中心的で、異常なほど甘ったれたものであることを教えてくれた。
同時に、そんな考えが捨てられない私に自省をうながしてくれた。

正月に働くのも、その人の役割。
家庭においても、会社においても、社会においても、人にはそれぞれの役割がある。
それは、何かを生産したり金銭を稼いだりすることばかりではない。
誰かに必要とされることだけでも、充分な役割。
存在すること自体が役割であったりすることもある。

私だってそう。
私には、私の役割がある。
もっと言えば、私にしかできない役割があると思う。
人から羨ましがられることもなく、人から憧れられることもない役割だけど。
まずは、自分に与えられた役割をまっとうすること、それが大事。

このブログを書くことは、もはや「仕事」とは言えなくなっている。
会社のサイトに公開されてはいるものの、原則として、会社の指揮監督下にはない。
書くことも書かないことも、自己裁量。
誰に咎められることも、誰に褒められることもない。
だから、手間隙かけて書いても、目に見える報酬はない。
しかし、これもまた私に与えられた役割。
自分を含めた誰かが必要としてくれ、自分を含めた誰かの役に立っていることがあるかもしれない。
これを読むことで、何かが上向きに変わることがあるかもしれない。
そして、その期待感が、私の報酬なのかもしれない。


2014年も、もう一週間が経とうとしている。
また一年、歳をとるからには、少しでも心の眼が開かれたいもの。
同じく、心の舌の感度も高まってほしい。
今ある肉の眼は、“欲しいもの”と“必要なもの”を見分けることができないから。
肉の舌は、本当の味を感じることができないから。

肉の眼が追うものばかりを求めることは、ときに虚しい。
肉の舌が欲しがるものばかりを求めることは、ときに害を招く。
例えて言うなら、「食べたいのは肉だけど、食べる必要があるのは野菜」ということ。
確かに、食べたいモノを食べることは大事。
人生の幸福に貢献する。
だけど、食べる必要があるモノを食べるのは、それよりもっと大事。
それを見つけるのは心の眼。
そして、それを美味しいと感じるのは肉の舌ではなく心の舌。
辛抱、我慢、負け惜しみ等ではなく、それを「美味い」と感じられる心の舌がほしい。

しかし、身体にいいからといって野菜ばかり食べていては精神を害す。
とは言え、前記の通り、美味しいからといって肉ばかり食べていては身体を害す。
大事なのは、そのバランスと、それぞれを見分ける眼と味わえる舌を持つこと。

人は、努力すること、忍耐すること、鍛錬することが必要。
しかし、そればかりの人生は、はたして幸せだろうか。
もちろん、何の努力・忍耐・鍛錬もない人生にも幸せは来ないはず。
肝心なのは、やはり、バランス。
仕事することも休むことも、酒を楽しむことも我慢することも、金を遣うことも貯めることも、勉強することも遊ぶことも、すべてバランスを保つことで相乗効果を発揮する。
そして、それが、自分の幸福感を高めていく。

ここ何年もそうだったように、今年も、多くの時間を労働に費やすことになるのだろう。
週休二日、年間休日100日なんて無理な話。
それが、会社における私の役割。
また、依頼者から求められる役割だったりする。
そんな仕事は、私にとって“肉”でもあり“野菜”でもある。
美味しいときもあれば、不味いときもある(苦しいときもあれば、楽しいときもある)。
美味しい部分もあれば、不味い部分もある(辛い部分もあれば、嬉しい部分もある)。
とにかく、好き嫌いせずバランスよく食べることが大事。
それが、身体と心に栄養をくれるのだから。

明日、七草粥は食べないだろうけど、“人生の肉野菜”は、バランスよく、しっかり食べていきたいと考えている年始である。




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