特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

素のまま

2015-10-14 08:22:36 | ゴミ屋敷 ゴミ部屋 片づけ
不特定多数の人と関わるのが私の仕事。
そして、一仕事が終われば、その関係は解消される。
不動産業者や建築業者等の担当者の中には、仕事柄、複数回に渡って関わりを持つこともあるけど、原則として一期一会。
大方の場合、
「二度とお目にかかるようなことはないと思いますし、お目にかかるようなことはないほうがいいですから・・・」
と、ちょっと切ない挨拶をもって関係は終了する。

現場によって、関わる期間はまちまち。
一回(一日)限りで終わることもあれば、数日から数週間、長いときは数ヶ月に及ぶこともある。
過去には、特殊清掃・消臭消毒・家財撤去・内装改修工事をやった現場で、関係が一年くらい続いた依頼者もいた。
そうなってくると、その関係は、「客と業者」というより親しい友人みたいなことになり、故人との思い出、人生観、悩み事等々、仕事には直接関係のない話も多くなる。
そして、仕事が終わると、「もう二度と会うことはないだろう」とわかったうえで、お互いに「ありがとうございました」と労いあって別れる。
そうして、少し寂しいような、少しあたたかいような余韻だけを残し、またアカの他人に戻るのである。

そんな仕事においては、残念ながら、苦手な(嫌いな)タイプの人とも遭遇する。
いくつかはブログにも登場させたが・・・
代金を踏み倒す人、
契約を交わした後で追加作業をサービスでやらせる人、
契約通りの作業をしたにも関わらず、終わった後で値引きを要求する人、
仕事を依頼するつもりもないのに、現地調査をさせてアドバイスだけ求める人、
現地調査に呼んでおいて約束の日時に現れずスルーする人等々・・・
思い出すと頭にくるけど、こういう類の人が少なからずいるのだ。
そうは言っても、素のままの自分を曝け出して怒り散らすわけにもいかず、忍耐をもって穏便に事を治めるのである(ほとんど泣き寝入り)。

その根底に共通するのは高慢・横柄な人格。
私はこれが嫌いである(好きな人はいないか・・・)。
私にだってその要素は充分にあるだろうから、他人事のように非難してはいけないけど、私は、人のそれに人一倍嫌悪感を覚える分、常日頃から人に対して偉そうな言動・態度をとらないように努めている(つもり)。
(もともと、人に偉そうにできる材料も持ち合わせていないけど。)


この現場の依頼者にも、はじめ、私は良い印象を持たなかった・・・

訪れた現場は、街中に建つマンションの一室。
一般的な1Rマンションだったが、立地を考えると家賃は高そうな感じ。
私を出迎えたのは若い女性。
時は昼過ぎ、約束の時間に私が来るとわかっていたはずなのにパジャマ姿で寝起き顔。
明るく染めた髪はボサボサで、それを派手なネイルでかき上げながら、照れ臭そうに笑いながら頭を下げた。
私は、想定していなかったキャラに戸惑い、余計な神経を使わされることを覚悟しながら、促されるまま部屋に入った。

室内は、ゴミ部屋。
床は見えておらず、隅の方は高めに堆積。
そのほとんどは飲食ゴミで、それを主として衣類や生活用品が混在。
ゴミと化粧品の混合異臭が漂い小蝿が飛び交う中、ベッドだけが孤島のように浮いていた。

依頼の内容は、ゴミの片付けと部屋のクリーニング。
私は、だらしなく散らかった部屋と、ひどく汚れた水廻りを観察。
そして、必要な作業と、それにかかる費用を提示した。
女性は、ある程度の費用がかかることは覚悟していたようだが、私が提示した金額はそれを少しオーバー。
一定の金額を示し、そこまで値引くよう要望してきた。
しかし、私も、かかるコストを慎重に計算してだした金額。
女性の言うまま、アッサリ値引いては逆に信用を失う。
私は、その金額になる理由を丁寧に説明し、その上で、値引きするための条件を探った。
とにもかくにも、契約前の値引き交渉はあって然るべきもの。
費用を安く抑えたいというのは自然な心理で、それは、私を不快にさせるものではなかった。

私が引っかかったのは、女性の言動と態度。
どこからどう見たって、私のほうが年上。
その上、家族でも友人でもなくアカの他人で、しかも初対面。
にも関わらず、言葉遣いはメチャクチャ。
敬語とタメ口をゴチャ混ぜにして、まるで同年代の友達と話しているかのようなノリ。
「こんな小娘にタメ口をきかれる筋合いはないんだけどなぁ・・・」
私は、そんな風に心の中でボヤきながら、それでも
「“客と業者”だから仕方がないか・・・我慢!我慢!」
と自分を説き伏せ、大人を装って仕事の話を続けた。

結局、料金は私が折れた。
若い女性に鼻の下を伸ばしたわけではなく、「前に相談した他社の担当者よりも私の方が信用できそう」と言ってくれたから。
ま、これは女性の常套(じょうとう)作戦のようにも思われなくもなかったが、悪い気がしなかった私は女性の言葉を素直に受け止め、値引きに応じた。
そして、その代わり、作業の日時はこちらの都合を優先してもらうことにして契約を交わした。

どうみても、女性はフツーのOLには見えず。
また、作業可能時間を確認すると、おのずと夜の仕事をしていることが判明。
夜の仕事といって思いつくのは水商売。
が、女性がどんな仕事に就いているかなんて私には関係のないこと。
代金をキチンと払ってもらえればそれでいいこと。
だから、私は、女性の職業については想像するだけにとどめておいた。
ただ、水商売で生計を立てているであろうことに、いい印象を持てなかった。
「何故?」って訊かれても返答に困るのだが、「職業に貴賎はある」と言える出来事をイヤというほど経験している私は、軽率な先入観とポリシーのない固定観念にもとづいてそう思った。

女性は、キャバ嬢だった。
ゴミの中に混ざった名刺の束でそれがわかった。
ただ、名刺の名前は契約書に書いてもらったサインと同名。
「契約書に源氏名を書いたのか?」
と、不快に思ったが、ゴミに混ざった公共料金の書類等もすべてその名前。
契約書の名前も名刺の名前も、どうも本名のよう。
「源氏名が悪い」なんてこれっぽっちも思っていないけど、本名で店にでていることに何となく好感をもった私は、女性のタメ口も気にならなくなった。
それは、横柄な人格からくるものではなく、仕事柄、身に染みついた“習性”からくるものと理解したから。

女性の仕事では、短時間のうちに客(男)と親しくなる必要がある。
愛嬌をふりまいて、好感をもってもらう必要がある。
女性は、限られた時間で相手に親しみをもってもらうためのテクニックとしてタメ口を多用しているのだと判断した。
しかし、客でもない私に対しては、その必要は何もない。
私と親しくなったって、女性には何のメリットもない。
なのに、仕事上で身についた習性として、無意識のうちにタメ口をきいてしまうようで、古くからの友人のような馴れ馴れしい話し方は終始変わることはなかった。
一方の私は、無愛想にされるよりよっぽど気は楽だったけど、それはそれとして自分のポジションをキッチリ理解して敬語を崩さなかった。

ゴミは大量にあった。
目立ったのは食べ物ゴミだったけど、その他、日常生活で発生するありとあらゆるゴミが混在。
更には、下着や生理用品ならまだしも、○イ○や○ー○ー(ヒント→電動)まで放ってあり、少し困惑。
そんなモノ見たことはあっても使ったことはない未熟者にとっては、手に取るのも躊躇われるような代物で、
「いくらなんでも、あけっぴろげ過ぎるだろ・・・これくらい隠しといてくれよ・・・」
と呆れかえった。
と同時に、素のままを曝け出せる女性のタフな羞恥心に、憧れにも似た劣等感のようなものを覚えた。

学歴も高くなさそうで、外見も派手気味。
豊かな教養も感じられず、言葉遣いも幼稚。
仕事は夜の水商売。
部屋の惨状が表したとおり、私生活もルーズで、とても褒められたものではなかった。

しかし、人の長所や短所は見つけられるものではあっても、数えられるものでも大小を比べられるものでもない。
女性には女性のなりに良いところがあるだろうし、もちろん悪いところもあるはず。
人って、決まった定規では計れない。
それなのに、人は人を年齢、性別、外見、学歴、職業、経歴などで計ってしまう。
もちろん、それで計れることもたくさんあるし、それで計っていいこともあると思う。
ただ、すべてそれで計ってはいけないし、計れると思ってもいけない。
一点の長所だけみて良い人間と判断することもできなければ、一点の悪いところだけみて悪い人間と決めつけることもできないのである。

人の評価がどうあれ、女性も一人間として、一度きり一パターンしか味わえない人生を生きていた。
経歴や職業がどうあれ、ちゃんと社会にでて、ちゃんと働いて、自分の食い扶持は自分で稼いでいた。
女性は女性なりに、自分ができるかぎりのことをやりながら自分の人生を素直に生きているように見えた。
代金についても「後払いでいい」という私に、「心配でしょ?」と、私の本心を見抜いたかのように笑って前払いしてくれた。
私には、その姿が、自分にないもの 自分に必要なものを見せてくれているように思えて、作業の手にも力が入るのだった。


人目をはばからないと人はわがままになる。
人目をはばからないと人を不快にさせる。
人目をはばかりすぎると自分を失う。
人目をはばかりすぎると人生が窮屈になる。
その辺のバランスをとるのが難しいところだけど、自意識過剰で打たれ弱い私は、世間体や人目をやたらと気にする性質。
だから、己を省みると「人目をはばかりすぎ?」と思ってしまうことが多々ある。

嫌われることを怖れ、皮だけの笑顔をつくる。
バカにされることを怖れ、つまらない見栄を張る。
劣ることを怖れ、見習うべき人を遠ざける。
負けることを怖れ、競うことを避ける。
結局、それが人生の道幅を狭めてしまい、爽快に走ることはおろか、一歩一歩を力強く踏み出すこともできなくなる。

社会は多くの人で構成され、それでこそ成り立っている。
協調性の陰で妥協し、人間関係力学の下で迎合し、組織規範の中で諦め、自分を殺すことでうまく回っているところもたくさんある。
共同社会・共生社会において、不本意でも、そうした社会性を発揮することは必要。
でも、たまには、素のままの自分を曝け出すときがあってもいいと思う。
その開放感が、くたびれた自分を再生させる一助になり、新しい自分が生まれるための気づきを与えてくれるかもしれないから。

だから、私は、恥かしげもなく、今日もこうして心の文字を紡いでいるのである。



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