特殊清掃「戦う男たち」

自殺・孤独死・事故死・殺人・焼死・溺死・ 飛び込み・・・遺体処置から特殊清掃・撤去・遺品処理・整理まで施行する男たち

自分との戦い

2021-03-02 08:29:46 | その他
前々回の「緊急事態」。
そんなつもりはないながら、当人達をややバカにするような文調で、おもしろおかしく書いてしまったけど、大腸のトラブルは、決して他人事ではない。
ていうか、実際に漏らしはしないにしても、誰しも、似たような経験をしたことがあるのではないだろうか。
半世紀余り生きてきて、私も、同じような経験をしたことが何度となくある(漏らしたことはないよ!)。

最も多かったのは20代後半から30代前半、とにかく大酒を呷っていた時代。
毎日の晩酌は当然、今に比べると外で飲むことも多く(だいたい上野)、二軒・三軒と決まった店をハシゴ。
当時、健康のことはほとんど気にせず、食べたいだけ食べ、飲みたいだけ飲んでいた。
で、体重も今より15kgほど多く、腹回りもパンパン。
これでは身体を壊すのも当り前、結局、肝癌や肝硬変を疑われるくらいの悪い数値がでてしまい(実際は重度の脂肪肝)、禁酒とダイエットを余儀なくされた。
肝臓が悪いと腹を下しやすいそうで、深酒した翌朝は、きまって下腹が不調に。
通勤電車の中で冷や汗をかいたこともしばしば。
ただ、途中下車したところで、トイレまである程度の距離を歩かなければならない。
しかも、朝のラッシュ時にすぐにトイレを確保できる保証はなく、双方リスクは似たようなものなので、私は途中下車を選択せず、尻の穴に気合を入れて何とか会社までもたせていた。

しかし、一度、途中下車せざるを得ないくらい逼迫したことがあった。
「会社までもたせるのは難しいかも・・・」と弱気になった私は、途中の新橋駅で下車。
そして、案内表示を頼りに、人波をかきわけて足を急がせた。
広い駅構内、ようやくトイレにたどり着いた私は、ホッと胸をなで下ろしながら中へ。
すると、そこには想定外の光景が!
なんと、トイレ(大)には長蛇の列ができていたのだ。
難なく入れると思って油断していたらこの事態。
朝の通勤時間帯とはいえ「“緊急事態”の人って、こんなにもいるものなのか・・・」と、面喰らうやら、感心するやら・・・
そうは言っても、とにかく並ばなければ先へは進めない。
「他のトイレに移動するべきか・・・下手に動くと藪蛇になるか・・・」
短い用ですむ“小市民”が苦境に陥った我々を横目に出入りする中、私は、とりあえず列の最後尾へ。
そして、先の読めない待ち時間に焦りが増す中で、順に個室に入っていく“大先輩”に「早く出せ!早く出ろ!」と、まるで呪いでもかけるかのように念を送った。

当然、そんな苦悩もお構いなしに大腸は蠕動運動を活発化。
緩急の波をもって徐々に圧を上げてきた。
そうは言っても、苦悶の表情を浮かべて、ソワソワ・モジモジと身体をくねらせるのはカッコ悪い。
表情にだけは余裕をもたせて、ひたすら、尻の穴と拳に力を込め、身体を固くするのみ。
列の面々をみても、「まだ俺は余裕あるぜ」といった雰囲気を醸し出して平静を装っている。
実際は、緊急事態のはず、必至に!我慢しているはずなのに。
自分もその一人とはいえ、“大腸vs尻の穴”、皆がジッと“糞闘”している様は実に滑稽で、そこに小さな人間の大きな人間味を感じた。
併せて、朝の駅トイレ(大)は簡単に入れると思わないほうがいいことを学んだのだった。

しかし、人間の身体って、一筋縄ではいかないもの。
大腸が、TPОも考えず急に便意を発することがある。
すると、前記のように、一人の人間、一つの身体の中で「大腸vs尻の穴」のバトルが始まる。
直ちにトイレに行ける状況であれば何の問題もないのだが、すぐにトイレに行けない場合は、一進一退の“自分との戦い”が繰り広げられることになる。
当然、脳は便意を抑え込もうとする。
しかし、大腸は、そう簡単には従わない。
ひたすら、「出そう!出そう!」と、力んでくる。
しかも、姑息にも、飴と鞭(緩急)を使いわけて、こちらの意思を挫こうとしてくる。
便意が抑え込めないとなると、あとは、最後の砦“尻の穴”を締めてかかるしかない。
しかし、“尻穴筋”なんて、普段から鍛えようもないし、“大腸筋”に比べたら明らかに筋量が少ない(?)。
結局、圧してくる大腸を前にできるのは、防戦一方の時間稼ぎのみ。
尻の穴が稼いでくれた時間を使って便器を獲得するしか助かる道はないのである。

“鼻づまり”もそう。
風邪を引いたり高熱がでたりすると、ただでさえ呼吸が苦しくなるのに、この身体は、わざわざ鼻孔を詰まらせてくる。
苦しいときに、なんでそんなことをするのだろう。
ウイルスや菌など、悪いモノが身体に入らないように防御しようとしているのか?
病んでから鼻を詰まらせたって手遅れじゃないか?
とにかく、鼻が詰まると、息苦しくて仕方がない。
カッチカチに詰まったりなんかすると、怒りを覚えるくらい。
子供の頃は、棒を差して穴を通したくなるような衝動にかられたことが何度もある。
寝返をうったりして体勢を変えると、一時的に鼻がスーッと通ることがあるけど、その間にチューブを差し込んで穴が閉じるのを阻止しようかと考えたりもした。
そんな過激なことを考えさせるくらいに難儀なことだった。

鼻水・鼻づまり・・・これからの時季は花粉が多くの人を悩ませる。
ただ、ありがたいことに、私には花粉症をはじめ、アレルギーらしいアレルギーはない。
「人の目を気にしすぎる」「人付き合いが苦手」「猜疑心が強い」等、ある種の“人間アレルギー”があるくらい。
ただ、周囲には花粉症の人がたくさんいる。
それぞれ、薬をのんだり目薬をさしたりして対策を講じてはいるものの、万全の策はないらしく、目や鼻を赤くして、涙や鼻水を流している人もいて、ティッシュを箱で持ち歩かなければダメなくらいの人もいる。
それに加えて、今年はコロナがある。
咳やクシャミをするにも人目をはばからなくてはならない世の中。
自分の身体のことだけではなく、人目も気にしなくてはならないわけで、大きなストレスがかかっていることだろう。


そんなコロナ禍にあって、自殺件数が増加しているらしい。
とりわけ、目立つのが若年層と女性の自殺。
近年、私の仕事においても減少傾向にあったのだが、昨年後半から、やや目立つようになってきている。
ただ、現実には、「自殺」という名の病死もあれば、「病死」という名の自殺もある。
私見だけど、多くの場合の自殺は、ある種の病死だと考えている。
経済的に追い詰められている人、精神的に追い詰められている人・・・
何の希望も見いだせず、絶望の淵に立たされている人・・・
虚しさの中で孤独な戦いを強いられている人・・・
それで精神を病んでしまう人・・・
全部が全部、コロナの影響ではないのだろうけど、それだけ、厳しい現実に直面している人が増えているということ。

ということは、コロナ禍がなければ死なずに済んだ人もいたのかもしれない。
そこに抱く感情は、
自分との戦いに負けた悔しさか・・・
自分との戦いに勝てない寂しさか・・・
自分との戦いを終える安堵か・・・
あくまで主観的な想像だけど、もっとも大きいのは諦念と方向違いの解放感。
すでに葛藤や迷いはなく、後悔や悲哀も過去のものにしているのだろうと思う。

しかし、事情はどうあれ、ほとんどの他人は「自殺」というものを嫌悪し批難し、また恐怖する。
ただ、私は、自殺というものを許容するわけではないながらも、自殺者を戦いの同志のように思っている。
だから、自殺者や自殺現場にも嫌悪感や恐怖感は湧いてこない。
湧いてくるのは同情を超えた労いの気持ちのみ。
もちろん、自殺という事象で悲しみのドン底に突き落とされる人や、大迷惑・大損害を被る人もいるわけで、批難されても仕方がない現実があることはイヤと言うほど目の当たりにしている。

それでも、それだけで片づけないでほしい。
うまく言えないけど、そこには苦悩の中にも必死に生きていた命がある。
「敵前逃亡」「戦線離脱」等、色々な見方がある中で、少なくとも不戦敗ではなかったこと・・・その“不戦敗ではない”というところに焦点を当ててほしい。
そして、その家族・友人・知人は、その人がこの地上に生きていたこと、精一杯 生きようとしていたことを自分が生きているかぎり忘れないでほしいと思う。
弔いの意味でも供養の意味でもなく、そのことを自分の戦いの武器にしてもらいたいと思う。


“K子さん”が「メンタルが強い」と褒めてくれたことがある。
どんな凄惨な現場も、果敢に?処理する姿を思い浮かべると、そう思えるらしい。
しかし、それとメンタルの強弱は無関係。
私にとって、この仕事は、「生きていくためにやらざるを得ないもの」「やらないと生きていけないもの」、だからやれているわけで、決してメンタルが強いからではない。
もっと言えば、メンタルが弱い人間だから故に たどり着いた仕事。
メンタルが強い人間は相応の根性があり、こつこつと努力ができて、ジッと忍耐ができて、思い切った挑戦ができる。
だから、もっと立派な仕事に就くことができる。
一方、メンタルが弱い人間は、小さいことでクヨクヨしてしまうし、ちょっとしたことにつまずいてしまう。
些細なことで悩んだり、気分を沈ませたりすることも日常茶飯事。
努力・忍耐・挑戦といったものとは縁がなく、で、こんな顛末・・・四苦八苦・七転八倒の人生を歩いている。

“生きる”って、本来、そんなに難しいことではないはず・・・
しかし、現実には難しく感じる・・・
でも、ここまで難しくしているのは自分なのかも・・・

私は、知らず知らずのうちに贅沢病、わがまま病、怠け病を患っている。
無意識のうちに、常に何かに不満を抱き、常に自己中心的な思考をし、常に楽することばかり考えている。
また、過剰に金を欲しがり、過剰に人の目を気にし、過剰に先のことを不安に思うようになっている。
特に欲しいモノがあるわけではないのに金銭欲だけは旺盛で、見た目も生き様も充分にカッコ悪いくせに開き直れず、いつまでも人の目を気にし、幸せな将来が待っているかもしれないのに悪い想像しかしない。
どういう生き方が正しい生き方なのか、どうすれば楽に生きられるのか、大方のところは本能的にわかっているのに、そこから変わることができない。
自分の愚かさに、自分の弱さに、自分の悪性に、易々と自分を乗っ取られてしまう。
そして、後味の悪い夜をやり過ごし、寝覚めが悪い朝を迎える。

「昨日の自分に今日は勝つ!」「今日に自分に明日は勝つ!」
そう決意しても、その志はそんなに長続きするものではない。
“自分”というものは、そこまで強くはない。
ただ、体力も脳力も落ちてきているとはいえ、無駄に歳はとっていない。
振り返ってみると、若い頃は負けが込んでいたような気がするけど、このところは善戦しているような気がする。
固有の“逃げ癖”も、いくらか弱くなっているような気がする。

しかし、“敵”が弱くなったのでも、“自分”が強くなったのでもない。
敗戦の苦渋から戦術を学び、勝戦のたびに武器を磨き・・・
敵の弱点がみえてきて、自分の強みがわかってきて・・・
「肉を切らせて骨を断つ」というか・・・
歴戦の中で、戦い方がうまくなってきたのではないかと思う。
あと、残りの人生が短くなっていることも影響していると思う。
「最期くらいは、きれいに生きたいな」って。


戦いの相手は、目の前の生活ではあるけど、真の相手は、その向こうにいる愚弱悪な自分。
この戦いは、生きているかぎり終わらない。
粘り強く戦うか、妥協して手をゆるめるか、諦めて人生を下っていくか・・・
どちらにしろ、中途半端なところで戦線を離脱するわけにはいかない。
負け癖に甘えてばかりでは、生きている甲斐がない。

人生、負けるときもあれば勝つときもある。
敗戦から学ぶ必要はあっても、それを引きずる必要はない。
勝敗は、自分次第で、その都度 リセットすればいい。
「ツラいなぁ・・・」「楽したいなぁ・・・」
そう思ったときこそ、いざ勝負。
「絶好のチャンスがきた!」と、闘志を燃やそう!
今はツラくとも、今は苦しくとも、それを乗り越えた先には、達成感、満足感、爽快感、そして、次への希望・・・そういったものが待っている。

日々、繰り広げられる自分との戦い・・・
生きていることの意味と喜びは、そういったところにも隠されているような気がするのである。


特殊清掃についてのお問い合わせは
0120-74-4949

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