雨がやむのを待って、病院まで自転車を走らせた。
手にできた湿疹が、市販の塗り薬では効果がないため
皮膚科を受診したのが2週間前のことで
きょうは、その2回目の治療であった。
10時前だというのに、広い駐車場は既に満車であった。
きょうも、相当待たされるようだ。
入口近くの駐輪場に自転車を止めて受付まで歩く。
駐車場に隣接した待合室は、全面ガラス窓になっているため
自転車で入ってきた私の行動は待合室から丸見えである。
窓側に座っていれば、否が応でも視界に入るだろう。
つまり、その女は私の存在に気が付いていたことになるが
その時の私は知る由もない。
広々とした待合室には、座り心地の良い長椅子がいくつも並んでおり
正面に取り付けられたテレビの下には大きな書棚があり
長い待ち時間も、手持無沙汰になることはない。
受付を済ませた私は、まっすぐ進んで待合室中ほどの席に座ったが
持参した本をバッグから取り出そうとしたとき、斜め後方の初老の女性が
テレビが見にくくなったと言わんばかりに身体をずらしたので
最後列の端の席へと移動した。
テレビの音は聞こえるものの、病院にありがちな老人の話声もなければ
子供の泣き声もない。
待合室は、不自然なほど静まりかえっている。
この静けさの中で、知人に出くわしたりすれば会話が筒抜けである。
そんなことにならぬよう、私は目の前の活字を追うことだけに専念した。
おそらく、その女が話しかけてこなかった理由もそういうことだったのかもしれない。
看護師が患者を呼ぶ声だけが、静かな待合室に響く。
同時に長椅子から立ち上がった3,4人の患者が中待合室に入ってゆく。
その一連の流れは、何度も繰り返されていた。
どこにでもあるそんな光景だったが
看護師が次に呼びいれた患者の名前を聞いた瞬間に
それまで読書に耽っていた私の胸の鼓動は一気に激しくなった。
あの女だ。
あの女がここにいる。
名前を聞いただけだと言うのに、遠くに追いやっていた記憶が鮮明に蘇る。
忌まわしい記憶のフォルダが映像になって目の前に広がる。
それは、偶然出会った友人と銀行のロビーで話しをしているときだった。
見知らぬ女が私たちの方に近づいてきた。
初めて見る顔に一瞬戸惑いはしたものの
それが誰であるか直感でわかった。
だからと言って、こちらから挨拶をする類の女ではない。
私に近づいてくる神経が理解できないでいると
「いつもご主人にお世話になっています。」とその女は言った。
その図々しい挨拶ぶりに、傍らにいた私の友人の方が驚愕した。
「不倫相手の奥さんにふつう挨拶なんかしてこないでしょ。
何よあの態度。どういう神経しているのかしら。」
友人は私を庇うようにその女を扱き下ろした。
女は、私が体調を崩して入院していたことまで知っており
体調を気遣うようなことを言い残して去って行った。
それは、夫との仲が継続中であることを私に伝えるために
わざと私の近況を知っているのだということを誇示したように思えた。
女とは別れたと言った夫がウソをついていることに他ならないが
そんなことで、もう私の感情がかき乱されることはなかった。
自らの不貞行為を認めた女の言葉は離婚の際に私に有利に働くだけだ。
どこまでもバカな女・・・。
そんな女に、これ以上振り回されるのはごめんだ。
離婚を決意した私だったが、私を取り巻く環境は一変した。
地方で手広く商売を営んでいた父の会社が倒産してしまい
とても離婚後の生活の面倒をみてもらえる状況ではなくなってしまったのだ。
弁護士に相談すると、離婚の際の慰謝料など微々たるものだと言われ
私は身動きがとれなくなってしまい、離婚を思いとどまるしかなかった。
結局、何事もなかったかのように私は夫と生活を共にしている。
10年以上、記憶の中から葬り去っていたというのに
嫌な名前を耳にしたものだ。
中待合室の前で順番を待っていると、処置室から待合室に直行せずに
狭い通路を折れてこちらに来る人影を感じた。
その女に違いない。
女は私が院内に入るところから話す機会を伺っていたのだろう。
しかし、こんなところで何を言おうというのか・・・。
「ご無沙汰しています。」
と声をかけられたところで私は診察室に呼ばれた。
もしかすると、私が治療を終えるのを待っているのではないかと思ったが
その後、どこにも女の姿は見当たらなかった。
ご無沙汰していますの後に続く言葉は何だったのか
気にならないと言えばウソになる。
しかし、もうこれ以上、嫌な記憶に引きずられるのはごめんだ。
永遠に無沙汰できるよう、次回の診察は時間帯を変えて行くことにした。
注:最後までご覧頂きましてありがとうございます。
一部脚色しております。
にほんブログ村