城山の沿革は、城山公園マップによれば次のようです。
1338年 足利尊氏に従っていた平野将監範久の築城と伝えらている。粕尾、粟野、清洲、南摩を領していた。
その後近隣の豪族の圧迫あり、皆川氏の属城、皆川氏の一族斉藤秀隆が居城した。
1584年 皆川氏は北条氏と対戦し、栃木の草倉山で100日間対陣していた。その隙、北条氏の親戚佐野氏が粟野城を攻め落とす。
平野将監範久の子孫平野大膳久国ら城代七将が守った。
1588年 皆川山城守広照は、旧領地を奪回するてめに二千余騎で粟野城を攻めた。
大激戦の結果城は落ち皆川氏の所有になった。
落合徳雲入道が城代になる。
1589年 豊臣秀吉が小田原征伐を行う。皆川氏は小田原に籠城した。
その留守に豊臣秀吉の命を受けた越後の上杉氏、信濃の真田氏が皆川氏の本城始め粟野城を攻め落城する。
以後、二百五十余年、廃城になる。
明治 横尾勝右衛門が城山につつじ、梅を植える。
以上な経過をたどり今日に至る。
横尾勝右衛門は、粟野城碑、五重の塔などを建てた。粟野城碑は山頂にあり高さ190cm、表面に雄渾な文字で「城山、源慶喜書」とある。上部にシャチが相対し、下から両横にかけて波が刻んである。涛速城と称していた名残か。裏には横尾勝右エ門の撰文で城の歴史が刻んである。
粟野城碑の全景です。
2mのポールを立ててみました。
源慶喜と刻んであります。
上部にシャチ刻んである。
波が刻んであります。
五重の塔は、高さ6m 城山公園内、女二城にある。花崗岩で塔前に同じ花崗岩の灯籠と標柱が各一対ある。標柱には、「築城己後戦死者の霊を弔う」と篆字で陰刻してある。
五重の塔の全景
五重の塔 2mのポール横に置いてみました。
2mのポールを建てみました。大きさを感じていただければと思います。
次回は大横尾勝右衛門について紹介します。