鹿沼市デジタル・コミュニティ推進協議会

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粟野城(城山公園)について

2018-03-14 | 粟野

 城山の沿革は、城山公園マップによれば次のようです。

 1338年  足利尊氏に従っていた平野将監範久の築城と伝えらている。粕尾、粟野、清洲、南摩を領していた。

                       その後近隣の豪族の圧迫あり、皆川氏の属城、皆川氏の一族斉藤秀隆が居城した。

 

 1584年  皆川氏は北条氏と対戦し、栃木の草倉山で100日間対陣していた。その隙、北条氏の親戚佐野氏が粟野城を攻め落とす。

        平野将監範久の子孫平野大膳久国ら城代七将が守った。

 

  1588年  皆川山城守広照は、旧領地を奪回するてめに二千余騎で粟野城を攻めた。

        大激戦の結果城は落ち皆川氏の所有になった。

        落合徳雲入道が城代になる。

 

 1589年  豊臣秀吉が小田原征伐を行う。皆川氏は小田原に籠城した。

        その留守に豊臣秀吉の命を受けた越後の上杉氏、信濃の真田氏が皆川氏の本城始め粟野城を攻め落城する。

        以後、二百五十余年、廃城になる。

 

 明治     横尾勝右衛門が城山につつじ、梅を植える。

 

 以上な経過をたどり今日に至る。

 横尾勝右衛門は、粟野城碑、五重の塔などを建てた。粟野城碑は山頂にあり高さ190cm、表面に雄渾な文字で「城山、源慶喜書」とある。上部にシャチが相対し、下から両横にかけて波が刻んである。涛速城と称していた名残か。裏には横尾勝右エ門の撰文で城の歴史が刻んである。

粟野城碑の全景です。

2mのポールを立ててみました。

源慶喜と刻んであります。

上部にシャチ刻んである。

波が刻んであります。

 

五重の塔は、高さ6m 城山公園内、女二城にある。花崗岩で塔前に同じ花崗岩の灯籠と標柱が各一対ある。標柱には、「築城己後戦死者の霊を弔う」と篆字で陰刻してある。

五重の塔の全景

五重の塔 2mのポール横に置いてみました。

2mのポールを建てみました。大きさを感じていただければと思います。

 次回は大横尾勝右衛門について紹介します。

 

 

 

 

 

        

 

 

 


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