『来たるべきアジア主義』
序文
廃墟と化した街区、無人の道路を走り抜ける家畜の群れ。そんな景色をわれわれは3・11以来何度も目撃してきた。そこに広がっているものは、あらゆる意味を剥ぎ取っていく廃墟であり、瓦礫である。われわれはそこに何を眺め、何を新たに築き上げなければならないか、考えてきたはずである。しかし、この国では3・11以後、われわれ自身が選んだはずの政権がもろくも内部崩壊した。そして、その後新たな何かを選ぶ気力も失ったまま、旧態依然とした古い体制を現出させてしまっている。われわれはこのアンシャンレジームを断固として拒否するものである。今、この国に必要なものは、ノンという力である。反アジア主義の風潮は断固撲滅しなければならない。
私は今ここに、この国の考える力を支えてきた現代思想=アジア主義の復活を高らかに告げる書物を、電子ネットワーク環境のただ中に開示する。アジアに住まうすべての心ある生活者のあつい支持を希う次第である。
2014年5月1日 東京都目黒区寓居にて 著者
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万人に開かれた書物 『来たるべきアジア主義』
長谷川如是閑賞作家川端秀夫&ダンボールの著書
電子ネットワーク時代の文学と思想の新機軸を創出
2014年5月1日よりブログ「ダンボールの部屋」にて堂々公開
『来たるべきアジア主義』 ⇒ 全篇詳細目次
序 文 2014年5月1日正午 ブログ「ダンボールの部屋」に公開
第一篇 「断トツに面白いダンスポ」 (書下し140枚)
2014年5月2日~6月13日 ブログに公開(43回分載)
第二篇 「橋川文三の文学精神」 (書下し70枚)
2014年6月14日~6月28日 ブログに公開(15回分載)
第三篇 「好日」(全50編・175枚)
2001年~2013年 連句同人誌『れぎおん』連載を再掲
第四篇 長谷川如是閑賞受賞作「歴史における保守と進歩」(40枚)
1986年中央大学よりリーフレットにて少部数刊行を再掲
著者:川端 秀夫 ハンドルネーム:ダンボール
HP:ダンボールネット・アンドロメダ館 http://blog.goo.ne.jp/danballnet
ブログ:ダンボールの部屋 http://blog.goo.ne.jp/dan5dan5
『橋川文三ゼミ談話室』 http://9307.teacup.com/shikon/bbs
『来たるべきアジア主義』はダンボールネットが発行する第一号図書です。
【反撃のトリビア】宇宙に屹立するただ一冊の書物を投げ出さむ。『死霊』の作者埴谷雄高の肉声→「薔薇、屈辱、自同律――つづめて云えば、俺はこれだけ」
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論敵といっても言葉の厳密な意味であり、核となっている心は、お互いの思想を認め合い、敬っているということである。
だから、熱を帯びた遣り取りをするのであるが、それは相手をやりこめることではなく、論争の中でお互いが更なる高みへと駆け上るためのものだ。
敬愛する論敵がいるから、思想の高みへと登っていけるのである。論敵、乃至はライバルとはそうしたものである。レベルが違っていたら、そもそもが論敵になり得ないし、ライバルにもなり得ないのではないだろうか。
ダンボール氏という敬愛できる論敵を得たことは、わたしにとって何よりも宝なのである。
その証拠に、これまでの論争の集大成ともいうべき思想へとわたしは辿り着けたのである。
「里山主義」という思想であるが、詳しくはわたしのブログを見ていただきたい。
また『風となれ、里山主義』という題名で、Kindle版電子書籍としても出版している。
この「里山主義」とは、日本のいわゆる「保守主義」と は明確に切れた、新しい「保守主義」の可能性を模索した先に辿り着いた思想である。
橋川文三は丸山真男の弟子であり、いわゆる丸山学派の一人なのだが、異端児的な存在であった。丸山学派とは極論すればマルクス主義の方法論を転倒させたものであろう。経済的な基盤としての下部構造を基にして上部構造を解明する方法論ではなく、上部構造と下部構造という区分にとらわれることなく、ダイナミックな視点から社会構造や歴史的、政治的事件の意味、思想などを解明しようとした学問なのだが、それだけに丸山学派の中にも様々なアプローチのスタイルがあり、柳田民俗学を取り入れた神島二郎なども異端児的なのであるが、こと橋川文三は神島の異端など超えていたのである。
どういう異端児かというと、処女作である『日本浪漫派批判序説』が雄弁に物語っている。
橋川文三の心の核は文学にあったのだといえよう。橋川は学者であるから歴史的文献を渉猟し、その膨大な資料から演繹的に、また帰納的に論考を導き出すことは当然であるが、しかし核となるのは文学的直観なのである。
この直観たるや神がかり的なのだ。それが橋川文三の類い希な才能なのである。
従って、橋川文三の書物はわかりづらい。文学的直観が核となっているからだ。だから、文学的鬼才である三島由紀夫が橋川文三の凄さに気づいたのであろう。ロマンチック・イロニーの問題性は、優れて今日的な問題だと、わたしは考えている。橋川文三の文学的直観は未だに色褪せてはいないのだ。
橋川文三の弟子である、ダンボール氏とわたしもこの血を受け継いでいると思っている。
そして、師である橋川文三と同様に、文学的直観は文学という檻を破って、思想、政治、芸術の世界へと雪崩れていくのである。
橋川文三は意識的にはユーモアとエスプリを駆使しない。存在そのものがユーモアでありエスプリだったからだ。わたしが学生の頃には「平凡パンチ」なる若者のバイブル(雑誌)があったのだが、橋川文三が名物教授としてでかでかと写真が載っていた。その写真を見れば、存在そのものがエスプリでありユーモアであることが納得できると思う。
如何せん、わたしとダンボール氏は未だにその境地には達していない。だから、やむなく意識的にユーモアとエスプリを駆使するのだ。
無味乾燥な文章は書かないと肝に銘じている。
わたしのブログを見て頂ければ納得するはずだろう。
今回は敬愛するダンボール氏のブログ開設に当たってのお祝いの挨拶代わりであるが、今後はダンボール氏の了解を得たので、このブログをわたしのサブグラウンドとしたい。
わたしのホームグランドも、よろしくお願いいたします。
わたしは小説も書いております。Kindle版電子書籍として出版しております。読んで頂ければ幸いです。
http://www.amazon.co.jp/Kindle%E3%82%B9%E3%83%88%E3%82%A2-%E5%8C%97%E6%9E%97%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF/s?ie=UTF8&field-author=%E5%8C%97%E6%9E%97%E3%81%82%E3%81%9A%E3%81%BF&page=1&rh=i%3Adigital-text