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好日6  怪物への道

2007年03月01日 06時00分00秒 | 好日6~10

 


          好日6  怪物への道


  エッセイは、ノンフィクションの一人称の語り手が語るという約束事の文学形式である。しかし、ルールは破るためにある。
 そう、その通り、草原を渡る風に賭けて、偽りなき証言をしよう。私の前世は虎である。忘れもしないあの日、私は最高に素晴らしい雌の虎を追いかけていた。逃げ場を失ったその雌虎は急角度の斜面を滑り落ちていった。斜面の下は岩場。落ちれば命はない。私は急角度の斜面を猛スピードで追撃をかけた。死へまっさかさまに滑り落ちながら、私はその最高の雌と交尾したのだった。数秒後の死を意識しながら、死んだらどうなるのかも知らず、永遠にこの快楽が続くことを願いつつ・・・
 転生はありふれた事実だが、虎から人間への転生はめずらしいそうだ。風の噂によれば、そういうことらしい。人間であることは不幸でも幸福でもない。どちらかというとちょっと退屈かな。空は飛べないし、水中で生活できるわけでもないのだから。
 転生は最大規模の移動だが、これよりスケールは小さい移動だが引っ越しがある。引っ越した最初の一日は誰も真性の詩人である。新しい生活を夢見る気力。それこそ詩人のみが持続する活力であろう。すなわち詩人とは、精神の深部で日々引っ越しを繰り返す人。時間を切り裂きつつ場所を移動する人である。ボードレールが何度も引っ越しを繰り返したのはよく知られている。ランボーはボストンバッグひとつに家財道具一切を入れてアフリカを放浪したのだ。「すべてを捨てよ、街頭に出発せよ」とブルトンは言った。
 ものに出会うためには、まずものを捨てなければならない。捨てられたものたち。古雑誌、破れた傘、ほこりを被ったビデオテープ、折れ線のついたネクタイ、色あせた鞄、解約した携帯機。ものを捨てるとは、価値のなくなった時間を捨てることだ。ものに束縛されていた時間から脱出すること。自由な時間を取り戻すことである。
 私は捨てられた椅子である。もう誰も座ることのない椅子。
 私は捨てられた時計である。しかし今も時は刻み続けている。 私は捨てられたパンである。私を捨てた人の名はユダ。
 私は捨てられた扇風機である。私はいま風に吹かれている。
 私は捨てられた赤ん坊である。私を捨てた人の名はルソー。
 我が輩は捨て猫である。我が輩の名は漱石。
 おいらはメダカです。メダカの学校は誰が生徒か先生か。それは水の流れ次第で偶然に決まる。先頭に立ったものが先生さ。
 私は捨てられた定期券。地下鉄六本木駅から銀座駅までの。私の中を列車が走る。列車の中には乗客があまた。車両の片隅に私は捨てられた。その私の中を列車が走る。中には乗客があまた。 僕は捨てられたラジオ。音は永久に消えた。
 僕は捨てられたカメラ。もう何も見なくていい。
 私は捨てられた剣。私を捨てた人の名は無名氏。秦の始皇帝刺殺のまさにその直前という時に投げ捨てられた。よって中国の統一はなった。天下は統一されたのである。
 さてこんなふうに、虎の記憶から秦始皇帝の刺客の話まで語り終えた私は、一人称の衣を投げ捨てて、最後の言葉を吐こう。
 怪物への道が存在する。その道を彼はいまたどっている。

 


 
すべてを捨てよ、街頭に出発せよ。その言葉を実践すべくブルトンはナジャの追跡を始める。伝説の書『ナジャ』はこうして成った。この映像はナジヤに代わりブルトンの晩年を導いたミューズ。
  


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