好日5 エロスとタナトス
サルサを始める前と後でぼくの人生は変わってしまった。新しい音楽に伴奏され、新しいステップを踏みながら、新しい人生の中にぼくは入って行った。
サルサにはエロスがある。エロスの神が偏在する場所としてのサルサ。例を示そう。あるパーティからの帰り道、ぼくはこんな電子メールを発信した。
「パーティではなるべくおおぜいの人と踊りたいという気持ちはもちろんあります。でもあなたと手をつないだ瞬間に、そういう気持ちは消え失せてしまいます」
このメールを発信する瞬間に、エロスの女神が微笑んだのだ。そうぼくは信じる。
「サルサに何を求めるか」と人に聞かれたことがある。その時ぼくは「百二十歳まで生きるための基礎体力作り」と答えた。
人生の勝利なくして思想の勝利はありえない。だから、エロスの神に援助を求める姿勢を誰も避けてはならない。
エロスとタナトスが闘っている時には、常にエロスの側に組すべきである。人生と思想に勝利するために。それは最も大事な智慧であり、欠くことができない戦略なのだ。
これは、『オディール』(レーモン・クノー著・宮川明子訳・月曜社刊)と、『あさま山荘一九七二』(坂口弘著・彩流社刊)の二冊の書物を同時並行して読んだ時のぼくの感想でもあった。「ワニがやにわにオディールをかじる」(クロコディール・クロコディール)という語呂合わせを、ロランが思い浮かべた時には(『オディール』三七頁参照)エロスとタナトスが闘っていた。この言葉にはタナトスが潜在している。しかしエロスの勝利は、そこに含まれる奇妙なユーモアによって予め保証されている。「すいとん、すいとん」と、ある革命戦士がつぶやいた時にも(『あさま山荘一九七二』下・二八五頁参照)エロスとタナトスの拮抗があったはずだ。総括の精神が前進する山岳アジト。そこにはユーモアのかけらもなかった。遊びがなかった。それはタナトスの大々的な勝利の前触れであったのだ。
『オディール』は、レーモン・クノーがシュールレアリスムの総帥アンドレ・ブルトンに出会ってから決別するまでの経験を凝縮した小説であり、『あさま山荘一九七二』は、森恒夫・永田洋子に次ぐ連合赤軍の幹部であった坂口弘による連合赤軍事件の総括の記録である。
シュールレアリスムと連合赤軍事件。ぼくの青春の記憶をよぎっていったこの二つの精神運動。一方はエロスの、もう一方はタナトスの化身と目されそうな二つの運動であるが、シュールレアリスムの運動の中にも混乱と悲哀と消耗は隠されており、したがってタナトスは潜在していた。タナトスだけが乱舞するかに見える『あさま山荘一九七二』という書物の中にも、たった一瞬であるがエロスの神が横切っていく。陰惨な頁を読み進む果ての果てにその場面は待っていた(第二九章「武装闘争の清算と出国拒否」参照)。一瞬の光。あとは闇。
個人の生活にも、ここに紹介した書物の中にも、そして今この世界の上でも、エロスとタナトスは相争っている。「見失うなエロスを、屈するなタナトスに」。呪文のように、ぼくはこう呟く。
坂口弘は日本赤軍による出国要請を拒否し死刑囚として獄中に残る決断をした。
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