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好日8  サリンジャーと九・一一

2007年03月01日 08時00分00秒 | 好日6~10

  好日8  サリンジャーと九・一一



 桜木町駅が廃止になりみなとみらい線が開通した。私の通っている職場はみなとみらい駅の真上のクイーンズスクエアビルの中にある。駅からエスカレータで昇れば、そのまま職場に直行できるようになった。

 クイーンズスクエアビルの四階から地下四階のみなとみらい駅ホームまでは、巨大な吹き抜けになっていて、四階から見降ろすとホームに電車が入ってくる様子を見ることができる。

 こういう景観はいままで誰も見たことがなかったはずなのだが、妙に既視感が漂う。キリコの絵を見た時のように。あるいは湾岸戦争の際のピンポイント爆弾のテレビ映像を見た時のように。

 見慣れた風景に突如異物が侵入してくる感覚。テクノロジーの尖端を垣間見るような感触。九・一一の事件のみではない。自分の生活の近辺にまで、グローバリズムの影響が近付いてきた気がするのである。ぼくらの感性や直観はますます世界とダイレクトに結ばれてきた。

 九・一一のテロは、誰が何の目的で行ったのか。犯行メッセージはいっさい発せられなかった。そのために、意味の解読は実行行為を担った犯人ではなく、映像の受け手に、アメリカや各国政府、そして世界中の知識人に任せられた。ひとつの事件が世界を結んだ。グローバリズムは、地球時間二〇〇一・九・一一という明確な誕生の日付を持っている。

 アメリカの理想主義の栄光と挫折、長所と欠点を一身に体現する作家はサリンジャーではないかとぼくは考えている。あれほどの傑作をものにした作家のほぼ四十年におよぶ沈黙は文学の歴史にも過去に例がない。サリンジャーの新作は死後に出るであろう。大量に書かれているであろう作品をサリンジャーはなぜ発表しないのか。近親者の言によれば、それは「不評が怖い」からなのだそうである。サリンジャーは紛れもなく天才を有した作家であるが、それは巨人の傲慢という人間的欠陥と裏表である。それゆえアメリカという没落しつつある帝国と、サリンジャーの存在が、ぼくにはこの頃メダルの裏と表のように見えつつある。


「古池やかわず飛び込む水の音」ー耳を澄ます人がここにいる。
「秋ふかし隣は何をする人ぞ」ー視えないものを視ようとする人がここにいる。
「もの言へばくちびるさむし秋の風」ーメッセージの彼方、ことばの彼方へ、魂を通わす人がここにいる。

 新生。電子ネットワーク時代の思想と文学。ぼくらの国の文学は、知性は、愛は、やはり俳諧から得た智慧を汲み取って再開していくしかない。アメリカの理想主義を超える叡智は、この国の言葉の伝統の中に埋もれている。それをグローバリズムの検証に耐えるものに新生させうるかどうかが問題なだけである。新しい言葉を語りうるかどうか、それはぼくらの生活が、新生を獲得できるかどうかに掛かっている。ダンテが、プルーストが、ドストエフスキーが、この国から出ない限り、世界の未来は危うい。文学は人間の心のいちばん奥深くまで届く最後のメッセージであり、対話の最終兵器なのだから。

 サリンジャーを、芭蕉を媒介にして超える。それが、今の私のビジョンである。



 ★マクルーハンの予言ー「グローバル時代には世界はひとつの村になる」★


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