【連句】①半歌仙「卵50個」の巻&留書
■半歌仙「卵50個」の巻 衆議判
表
飛花や一片空のある自由 小原洋一
虻が眠れる切株の芯 川端秀夫
春暖炉あやしきものは振子にて 上野遊馬
左右に開く物語なり 秀夫
月光に干されてゐたる人民服 遊馬
ましらたけにはシャオシンチューを 洋一
裏
露しとどコクトーを待つピアノ椅子 遊馬
ことばとぎれて天使が通る 遊馬
からだからはじける闇をしとねにす 洋一
卵50個粉50kg 秀夫
旅果ての憂いのつづき金魚草 遊馬
サーカステント睨む狛犬 秀夫
夢の端に置くとらばさみ纖の月 洋一
卑弥乎の国に奴卑売りに行く 秀夫
フラクタルな煙草のけむり海の鳴り 遊馬
義理と人情背ナの双龍 洋一
朝桜闘争勝利の立看板 秀夫
ビー玉投げる屋根のうららか 遊馬
首尾:平成九年四月十二日
於:東京自由ヶ丘川端邸
■留書 「俳諧の花」
文学の可能性はどこにあるのだろう。
それは、新しい言葉を発するということ以外にはないように思える。
だがすぐに「新しい言葉を発する」という言い方は少しも新しくないことに気が付く。
要は、誰が、いつ、どんなタイミングで言葉を発したかによるのだろう。
「大事なことは、いちばん大事なことは、いまからすべてが新しくなる、すべてががらりと一変することなんだ。すべてが、すべてがだ、でもぼくはその覚悟ができているのだろうか? ぼく自身はそれを望んでいるのか?」
(ドストエフスキー『罪と罰』江川卓訳)
新しい言葉はどこからやって来るのだろう。
大事なことは、このラスコーリニコフの言葉には、ソーニャという聞き手がいたという事実だ。新しい言葉は、それを新しい言葉として受け止めることができる聞き手がいるところでだけ発することができる。
言葉が命を得るための必須条件としての対話的思考。
むろんこのような発想自体少しも新しくはない。バフチンがすでに解明してしまった思想だ。しかしながらバフチンの言葉はいまなお新しい。ドストエフスキーの天才を語り続けて永遠に新しい。バフチンには、ドストエフスキーの読者という確固とした聞き手がいるからだ。
「新しみは俳諧の花」とか。ならば我々も新しみを求めて旅に出なければいけない。
要は出会いである。その質であろう。
新しい言葉を発する? 極めて困難ではあるが、ある条件が整えばそれは可能であろう。
でもぼくらはその覚悟ができているのだろうか?
ぼくら自身はそれを望んでいるのか?
ダンボール
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