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<メタ・フィクション>
『連句ルネッサンス計画』
ダンボール
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第一章 序 詩二篇
女たちへ
きよらかはみだら
みだらはきよらか
甘い混沌、分けあっていこうね
男たちへ
明日、決闘しよう
弾丸はそれぞれ一発ずつ
勝った者は、王となる
負けた者は、神となる
それでいいか?
第二章 ダンボール・シアター特別公演
タイトル『 今 日 も 明 日 も 』
作・演出 ダンボール
出演 森高千里
パスカル
二人は小さなテーブルに向かい合って座っている。テーブルの上にはコップが一
個と一冊の本。本の題名は『ダンボールがグチャグチャになって』である。なぜ、
そんなくだらない名前の本がそこに置いてあるのか? その理由は誰も知らない。
ま、そんなことはどうでもいいとして、……開幕のベルが鳴る。
森高千里「パスカルさんはどんな女の人が好きなんですか?」
パスカル、手元のコップを持って彼女の前に差し出す。
森高千里「それは、何ですか?」
パスカル「これは、コップです」
森高千里「何を言っているんですか?」
パスカル「このコップみたいな女の人が好きだと言ってるんです」
森高千里「なるほど、でもわたしはこのハンカチの方が好きです」
……と言って、自分のハンカチを広げてみせる。
パスカル「ぼくもそのハンカチの方が好きです」
森高千里「じゃあ、わたしと寝て下さい」
パスカル「いいですよ今日だったら。明日だったらもういやだ」
森高千里「わたしは明日だったらいいけど、今日はいやです」
パスカル「じゃあ、今日も明日も寝ましょうか」
森高千里「そうしましょう」
パスカル「やっぱりやめときましょう」
森高千里「どうもありがとう」
パスカル「ぼくは振られてしまった」
森高千里「これで終わりですね」
パスカル「これから始まります」
森高千里「はじまりはじまりー」
パスカル「何が始まるのでしょう?」
森高千里「連句ルネッサンス計画よ」
第三章 現代連句への電子メール
拝啓 電子ネットワーク戦士ダンボール様
似本島真文拝
先日はメールありがとうございました。御依頼の件、いろいろと考えてみました。私への御依頼は、「現代連句」をテーマにしたパソコン通信の会議室を開くにあた
って、まず現代連句の優れた付句であると思うものを五つ位選んでほしい、たとえ
ば『連句年鑑』の中からでも、ということでした。
しかし、よくよく考えてみますと、私も連句はかれこれ八年もやっていますが、
あれは自分で本当にいい付けであったなあと自分で本当に納得できるようなものは、今までにせいぜい五、六句位しかありません。つまり自分の付句に限定しても、歌
仙一〇〇巻以上の中から、選定のための候補が五つか六つくらい出せるに過ぎない
のです。で、さらにそれを一つに絞り、他の人の付句においても同じような作業を
繰り返して初めて、これが現代連句の代表的な優れた付句である、というようなも
のが最終的に出せるのでしょうが、これはおそらく個人の手には余る仕事です。
しかし、自分の付句に関しては、誰でもそうですが、記憶というものがあります。いちいち自分の全作品を読み返さなくとも、あれが自分のベストの付句であったか
もしれないという、こころあたりはきっと誰にもあるはずです。その記憶、その経
験を持ち寄って、その人なりの付句観を提示しあって、そこから学び、質問し、反
対意見をのべたりして、連句についての議論を進めていくのが、実際的に可能な
「現代連句の付け」をテーマにしたパソコン通信の会議室の方針ということになる
ではないかと思うのです。まず出発点としては、各人各様に、極私的な、良い(と
信ずる)付け合いを提示する所から始める。そういうやりかたで「現代連句の付け」の議論を始めてはどうかと提案します。
そこでまず言い出しっぺが責任をとり、「極私的・現代連句の付け」についての
意見をこの私が。この報告をもってダンボールさん御提案のパソコン通信連句会議
室のオープニング・メッセージに代えさせて頂きたいと思います。私の選んだテー
マは「最初の付句の持つ意義について」です。よろしくお願いいたします。
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パソコン通信『現代連句会議室』開設にあたって
ー最初の付句の持つ意義についてー
報告 似本島真文 #
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白羊宮の会の東堂貴友さんと嶋田洋子さんに招いて頂いて、私が初めて連句の座
に連なったのは八五年の十二月でした。事前に『白羊宮』を送ってもらいそれを読
んではいましたが、連句については私は何も知りませんでした。
オモテでは事情もよく分からず様子を見ていただけですが、ウラにはいり、四句
めの「ゴロンと生きてプツンと死んで」という多気田祐二さんの前句に、私の出し
た最初の句は「花を餌に人魚釣る手に波しぶき」だったのです。東堂貴友さんは
「ウーン、波しぶきが余計だな。短詩では言葉をもっと惜しんで使った方がいい」
とおっしゃて、私も「なるほど」」と思いました。「でも、いい句だから、どこか
で使いましょうね」と嶋田さん。その日の捌きは嶋田洋子さんが担当でした。結局、「花を餌にして人魚釣るなり」と短句になおしていただいて、ウラの8句目に、初
めて私の句が入りました。前句は「ひょっとこの血を吐く酔もありぬべし」で、東
堂さんの句。
ひょっとこの血を吐く酔もありぬべし 貴友
花を餌にして人魚釣るなり 真文
さて、ここからが実は、最初の付句について、というテーマの始まりなのです。
連句は付けがたいせつである、このあたりまえのことを誰もが連句初心者に説明し
ようとします。しかし、私の考えでは、連句初心者は良い付けとは何であるかをい
くら説明されても絶対に理解しません。そのように考える覚悟が連句人には、とり
わけ実作者たる連句人には、この際、絶対に必要でしょう。初心者に最初から良い
付けを期待するのは無理であって、初心者が出した句に良い付句を付けてあげて、
そのことによって連句における「付け」ということの意義を悟らせるということが、唯一できるのではないかと思うのです。
「さあ、いい句ですから、しっかり付けてくださいよ」と、嶋田さんがおっしゃ
って、白羊宮の連衆はその瞬間から、熟考の態勢に入りました。シーンとした中で、私の句「花を餌にして人魚釣るなり」への付句が考えられているのだなと思うと、
なにしろ初めてのことですので感動的な思いに満たされたものです。その瞬間の記
憶は、いまでもはっきりと残っています。私にしてみればこの句にいったいどんな
句がつくのか、また付き得るのかは見当もつかなかったというのが、その時の実情
でした。というより、そもそも、「付ける」ということがどんな行為であるかとい
うことはまったくわかっていなかったのです。
嶋田さんから「さあ、付きましたよ」と見せられたのが、次の川野涼奏さんの句
だったのです。私は、実に意外な気がして、その鮮やかさに、本当に驚いてしまい
ました。
花を餌にして人魚釣るなり 真文
春うらら航空母艦坐礁する 涼奏
こちらでは花を餌にして人魚を釣っている、ふと視線を移すと、巨大な航空母艦
が坐礁している。空には飛行機。その機影に海中では人魚が泳ぐ。そして、それら
すべてをひっくるめて「春うらら」である。季語が実に活きて使われている。どう
考えても自分には出てこない発想だったので、涼奏さんに「すごいですね。驚きま
した」というと、涼奏さんは「いや、まあ仕方がない」とそれほどのものではない
という調子の返答で、それには二度またビックリ。
涼奏さん御自身はこの付け句を御自文の優れた付け句のなかには入れておられな
いかもしれませんが、私は優れた付け句としてまずこの付け合いを挙げたいとおも
います。「なるほど付けるってこういうことなのか。連句ってなかなか面白いなあ」と、連句初心者に、思わせたからでであって、連句初心者に対して誰もそれ以上の
ことができる筈はありません。
良い付け、悪い付けというものが仮にあるとしても、同じ一つの尺度で良い付け
悪い付けを計るのはそもそも無理があるのではないか。良い付けというものは、そ
もそも一回性のできごとであり、その日、その場で、それこそ一回ごとに良い付け
の基準は作り直される必要があるのではないかと思います。優れた付け句を報告し、それを素材に議論する場合に、「極私的・現代連句の付け論」という形でやってい
くのが、ふさわしいのではないかと私が考える理由もそこにあります。
第四章 文学部ピタリ助教授講演会
本日の講演テーマ「連句ルネッサンス計画」
司会者「それでは御紹介させていただきます。ダンボール大学文学部ピタリ助教
授です。先生は演劇哲学の御専攻で、一九六二年三月十三日ハンガリーのブタペス
トにお生れの、今年三八才。お母さまは日本人と承っております。お父上は皆様
よく御存知の高名な日本研究家ピタリ・ヤー氏です。さて、本日は文学における対
話の問題を中心テーマに据え、世界文学の中における現代連句の位置付けをお話い
ただけることになっております。それでは、御紹介が長くなるといけません。皆様、拍手をもってお迎え下さい。ハンガリーの若き天才、ダンボール大学文学部演劇哲
学科、ピタリ助教授です」(盛大な拍手)
(講演はハンガリー語で行われ、ワンセンテンス毎に日本語に通訳された。括弧
の中の注は、文脈の理解に必要と思われる語句を訳者が補ったものである)
『 ピ タ リ 助 教 授 の 講 演 』
日本の皆様、こんにちは。
どんな難しい問題も、私が話せば、みんな、なるほどなあ、ああそういうことか
と納得する。アナタタチノ、シリタイコトヲ、ピタリト、イイアテル(注‥この部
分をピタリ助教授は日本語で話し、会場からは拍手がおきた)。ワタシガ、ウワサ
ノ、ピタリ、デス。(笑、そして拍手)
本日の講演の主題に入る前に、私の専攻している演劇哲学という学問について、
少し話させて下さい。演劇については、いろいろな見方ができますが、演劇哲学の
立場からは、それを、人間の対話している姿ととらえます。対話といっても、ここ
では、広い意味で使っているのに、注意して下さい。喧嘩でも、愛の会話でも、赤
ちゃんがお母さんにパプパプと言っていても、もちろん議論していても、すべてそ
れらを人間の対話している姿ととらえます。もちろん、このような意味での対話は、人間が毎日やっていることです。この人間が毎日やっている対話を、演劇は、意味
のあると思われる観点から編集し、構成し、置き換えて一つの芸術作品に仕立てて
いくのです。もちろん、演劇には、傑作もあれば、駄作もあります。演劇を、深く
研究し、そこから、様々な発見をおこなっていくのが、まず、演劇哲学という学問
がやっていることです。でも、それならば(注‥演劇哲学という学問が演劇を単に
深く研究することだけならば)、演劇哲学は、演劇学と、何の違いもありません。
では、演劇哲学は、演劇学と、どこが違うか。ここで皆さんは、演劇形式、すなわ
ち対話の形式で表現された哲学があることを、思い出して頂かねばなりません。そ
して、対話の形式で表現された哲学は、いろいろとある哲学の内の単に一つの種類
であるというものではなくて、まさに対話こそが哲学そのものなのだということも、あわせて分かっていただきたいのです。しかし、対話そのものである哲学について
の詳しい話は、今日は省略します。
この二つの種類の極めて重要な対話形式、すなわち、演劇と哲学、この両者の差
異と同一性、それらを研究し、いろいろと発見されたことについての目録をつくっ
たりするのが演劇哲学である。ひとまず皆様には、そのように御了解していただけ
るならば、その理解は、必ずしも、大きく間違ってはいません。演劇哲学について
は、まず、これだけのことをを申し述べておきます。
象徴的に述べるならば、演劇哲学とは、シェイクスピアとプラトンが対話してい
る光景を思い浮かべる学問である、といっていいいかもしれません。しかし、どう
か、早とちりしないで下さい。シェイクスピアとプラトンの対話は、まったく成立
しないかもしれないのです。ごく慎ましくいうならば、シェイクスピアとプラトン
の対話は、果たして成り立つのかどうか。その結論を出すためには、あらかじめ、
何が分かっていなければならないのか、その条件(注‥シェイクスピアとプラトン
の対話が成り立つかどうかの結論を出すための条件)を、一生懸命になって調べる、そういう極めて地味な学問が演劇哲学であると、いってもいいかも知れません。
人間とは対話する動物です。対話する動物である人間にとって、演劇哲学が、そ
の人間自身に対して、いったいいかなる役割を果たし、いかなる意義を持っている
のか、またこの学問によって発見された事柄が、いかなる奥行きと深さを持ったも
のであるか、そういうことに関しましては、たいへん残念ですが、今日は時間がな
いので話す訳には参りません。私の話を聞いて、もし興味を持った観客の方がいら
っしゃいましたなら、ハンガリー語をマスターして、どうぞブタペストまでいらっ
しゃい。あなたは、いやというほど、私の口から演劇哲学の話を聞くことができる
でしょう。私は、そうなったら(注‥ハンガリー語をマスターしてブタペストまで
演劇哲学の話を聞きに来たら)、二度ともうあなたを放さないでしょう。前置きが
長くなりました。私の(注‥専攻している学問であるところの)演劇哲学の話に関
しては、これで終わりです。では、本題に入りましょう。
連句は対話芸術であり、特に詩的な対話を目指すものです。文学における対話性
をめぐって、世界文学の中に於ける連句芸術の位置付けをし、さらに「連句ルネッ
サンス計画」についても、これからみなさまと一緒に考えてまいることに致しまし
ょう。
第五章 突然ですが臨時ニュースです
臨時ニュースを申し上げます。
かねてより臣下を二分して御乱闘中のガギグ屁以下とゲゴ非田蚊が、本日、くた
びれ果てて一日の御休憩を御宣告なさいました。国民はこの悲しい知らせに、一時
も早きお二人の御体力の御回復と、新たなる御乱闘の御再開を待ち望んでおります。 それでは、告民と被告民の、お二人を称える声をお聞き下さい。
告民 「ガギグよ、あなたは屁以下だ。何度もいうぞ、屁以下だ」
被告民「ゲゴよ、おまえは非田蚊だ。非田にブンブン、非田蚊だ」
こちら、地底放送局。
アナウンス担当、ケコがお伝えしました。
臨時ニュースが続いております。
かねてより後光祭チューのパピプ電化と麗しき御礼状ぺポさまが、本日、娯婚約
を発表なさいました。それでは、ただいまより、パピプ電化とぺポさまの「れぎお
ん」の悟友人へ向けての、語挨拶をお聞き下さい。
パピプ電化「パピプ!」
ペポさま 「ペポ! 」
こちら、火星放送局。
アナウンス担当、バビブがお伝えしました。
第六章 文学部ピタリ助教授よりのラスト・メッセージ
ワタシタチノハンガリーハ、トテモチイサイクニデス。マワリノクニカラ、イツ
モイジメラレテキマシタ。ワタシタチハ、ヘイキンシテ一〇〇ネンニ一カイ、ハン
ランヲ、オコシマシタ。ソシテ、ソノケッカハ、ゼンブマケマシタ。ソンナワタシ
タチニモ、ホコリハアリマス。ソレハ、タトエドンナギャッキョウニアッテモ、ワ
タシタチガ、ケッシテハンガリーゴヲワスレナカットコトデス。ウツクシイハンガ
リーゴヲ、ゼッタイニステマセンデシタ。ワタシタチハ、ヨーロッパノナカニスム、アジアケイノミンゾクデス。タイカイニタダヨウシマノヨウニ、ワタシタチノクニ
ハ、ヨーロッパノナカニ、ソンザイシテイルノデス。ハンガリージンハ、ニホンジ
ンヲ、トテモソンケイシテイマス。ドウゾヨロシクオネガイイタシマス。
エッ? レンクルネッサンスケイカクハ、ドウナッタトオタズネデスカ。ソレハ、アナタガタガ、オタテニナル、ケイカクダッタノデスヨ。レンクルネッサンスケイ
カクトハ、ドンナケイカクデアリ、ハタシテダレガ、ジッコウスルノデショウ。ソ
ノコタエハ、カゼニフカレテイルバカリ……。ベリー・サンクス、フロム、ブタペ
スト。ソレデハ、マサフミサン、ハナノクヲドウゾ。
僕だけの若狭にありて花を浴び 真文
『連句ルネッサンス計画』(終)
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