かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

清見糺の歌一首鑑賞 24

2022-09-24 10:52:12 | 短歌の鑑賞
     ブログ版 清見糺の短歌鑑賞    
                  鎌倉なぎさの会  鹿取 未放

改訂版24 〈宗教は阿片〉とぞさはさりながらわれは阿片を神と吸いたし
                  「かりん」95年1月号

 「宗教は阿片なり」という有名な言葉はマルクスが25歳の時に書いた『ヘーゲル法哲学批判序説』にある。しかし、この歌、直接には『死者の書』展を見た感想から生まれたようだ。「かりん」の同じ号に次のような二首が載っている。
チベットの空深ければ飛ぶ鳥に骨肉あたえて葬りせるかも
『死者の書』によれば初日がおもしろい解脱は性的陶酔に似て
 掲出歌は、この2首目の下の句「解脱は性的陶酔に似て」からの連想により、阿片を引き出しているのだろう。マルクスはそう言っているけれど、まあ、そういう難しい話は措いて、阿片がそんなに気持ちの良いものだったら阿片を神と共に吸ってみたいよ、というのだろう。階級闘争云々はさりげなくずらして、しかしちゃっかり彼らが否定した神を結句で登場させているところが、この歌の味なのだろう。
 ただ、1935年生まれの作者が(その頃の知識人のかなりの人々に共通するように)かつて共産党に入党し、紆余曲折を経て離党していることを考えると、内実の思いはそれほど単純ではなかったかもしれない。


         (後日意見)(2012年7月)
 この歌、〈宗教は阿片〉の阿片は比喩だが、下の句の阿片は阿片そのものを指しているのでそこにズラシがあり、解釈がしづらくなっている。〈宗教は民衆の阿片である〉はマルクスの言葉として知られているが、親友ハイネの「宗教は救いのない、苦しむ人々のための、精神的な阿片である」の借用らしい。それは措いて、またレーニンも同様のことを言っている。レーニンは言葉のみでなく宗教の弾圧を行い、教会を壊し、聖職者を処刑にした。当然行き過ぎであるが、言わんとするところは分かる。宗教は来世での救いを掲げることで、搾取される側にはこの世でどんなに辛くても忍従しろと説き現実世界での解決から目を背けさせる。逆に支配階級には、この世でわずかばかりの施しをすれば救済されると説き、搾取することに免罪符を与える。
 作者は共産党を離党しても、階級闘争の必要性まで否定していたわけではないのだろう。

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