ブログ改訂版 渡辺松男研究 18 2014年8月
【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
◆末尾の(後日意見)(2021年2月)の部分を追加しました。
149 会葬に生者のみ集いくるふしぎ空に級木(しなのき)の葉がひるがえる
(レポート)
会葬には生者しか来ていないようにみえて、それを「ふしぎ」だという。「級木」が高くに「ひるがえる」のは、死者が来ているのか、死者を誘っているのか。このように理由づけると歌がつまらなくなるのだが、「級木の葉がひるがえる」を心の必然として詠っており、死者をあたかも照らそうとしているようだ。3句の「空」の措辞も関係していようが、今ここにないものを思っている作者のこころが、一首のふしぎな明るさとなる。(慧子)
(紙上意見)
高木の級木の葉が翻る斎場で、作者の知人の(あるいは関係者の)葬式が行われた。故人と生前に、最後までつきあっていた人ばかりでなく、過去のつきあいであったOBなども参列しているのに、なぜか、それは生者ばかりで、死者はいない、という不思議。故人のことを偲ぶのであれば、関わりのあった人全部が、生者、死者を問わず、集まるべきだという気持ちが、そこはかとなく感じられる。(鈴木)
(発言)
★この一首、こう詠われていることが不思議です。普通、会葬には生きている人しか来ないわけで
すから、目に見えない人々も集まり来るべきだっていうのが疑問として残った。その次の級木っ
ていうのが、菩提樹、西洋級木というらしいですが、何でこの木なのか、この木でないといけな
いからこの木を選んだのでしょうが、だからこの木に鍵があるんでしょうが、分かったような分
からないような不思議な一首です。(真帆)
★生きていない人も来ているよ、ということを級木が翻ることで示している。(曽我)
★そうですね、純粋になぜ死者達はやってこないのだろうかという疑問と取ることも出来るけれど、
曽我さんのいうように、実は死者たちも集っていて、その証として級木が翻っている、とも考え
られる。なぜ死者が来ないのかの疑問と取ると、級木に意味が繋がっていきにくいですね。葉が
翻る歌は先月の鑑賞でもダンコウバイとかありましたよね。私は茂吉の「死にたまふ母」の冒頭
の歌(ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ)を思い出しましたが。
あれはお母さんの重篤を聞いて急いで故郷に帰るところで、不安感とか焦燥感とかを象徴してい
ると思うけど、ここで翻っている級木も何となく不穏な感じがする。死者達が集まっているざわ
ざわ感が葉を翻しているんだろうか、死者達の新しい死者を悼む気分がざわざわ感に繋がるんだ
ろうか。(鹿取)
★評者が「『級木の葉がひるがえる』を心の必然として詠っており」と書かれているけど、どうい
うことですか?(真帆)
★作者は会葬の場でいろんな景がある中でぱっと級木を捕まえたと思うんです。でもなぜ級木かは
歌のできる現場で理屈では語れないと思うんです。直接級木が作者に響いたんだと思います。
(慧子)
(後日意見)
岡野弘彦に「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」(『蹌踉歌』)がある から、「ふしぎ」は意図的である。(田村広志)
(後日意見)(2021年2月)
いまや多磨霊園は生者と死者の区別のない時空を超えた空(空間)となり、級木(しなのき)は葉をひるがえして、会葬に集い来た人々とともに埋葬された人を悼むのである。が、生者たちはそのような級木の存在に気がつかない。なんという不可思議(不条理)なことか。死者も同様に会葬に参加していることが分からない生者(人間)は傲慢である。(S・I)
【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
◆末尾の(後日意見)(2021年2月)の部分を追加しました。
149 会葬に生者のみ集いくるふしぎ空に級木(しなのき)の葉がひるがえる
(レポート)
会葬には生者しか来ていないようにみえて、それを「ふしぎ」だという。「級木」が高くに「ひるがえる」のは、死者が来ているのか、死者を誘っているのか。このように理由づけると歌がつまらなくなるのだが、「級木の葉がひるがえる」を心の必然として詠っており、死者をあたかも照らそうとしているようだ。3句の「空」の措辞も関係していようが、今ここにないものを思っている作者のこころが、一首のふしぎな明るさとなる。(慧子)
(紙上意見)
高木の級木の葉が翻る斎場で、作者の知人の(あるいは関係者の)葬式が行われた。故人と生前に、最後までつきあっていた人ばかりでなく、過去のつきあいであったOBなども参列しているのに、なぜか、それは生者ばかりで、死者はいない、という不思議。故人のことを偲ぶのであれば、関わりのあった人全部が、生者、死者を問わず、集まるべきだという気持ちが、そこはかとなく感じられる。(鈴木)
(発言)
★この一首、こう詠われていることが不思議です。普通、会葬には生きている人しか来ないわけで
すから、目に見えない人々も集まり来るべきだっていうのが疑問として残った。その次の級木っ
ていうのが、菩提樹、西洋級木というらしいですが、何でこの木なのか、この木でないといけな
いからこの木を選んだのでしょうが、だからこの木に鍵があるんでしょうが、分かったような分
からないような不思議な一首です。(真帆)
★生きていない人も来ているよ、ということを級木が翻ることで示している。(曽我)
★そうですね、純粋になぜ死者達はやってこないのだろうかという疑問と取ることも出来るけれど、
曽我さんのいうように、実は死者たちも集っていて、その証として級木が翻っている、とも考え
られる。なぜ死者が来ないのかの疑問と取ると、級木に意味が繋がっていきにくいですね。葉が
翻る歌は先月の鑑賞でもダンコウバイとかありましたよね。私は茂吉の「死にたまふ母」の冒頭
の歌(ひろき葉は樹にひるがへり光りつつかくろひにつつしづ心なけれ)を思い出しましたが。
あれはお母さんの重篤を聞いて急いで故郷に帰るところで、不安感とか焦燥感とかを象徴してい
ると思うけど、ここで翻っている級木も何となく不穏な感じがする。死者達が集まっているざわ
ざわ感が葉を翻しているんだろうか、死者達の新しい死者を悼む気分がざわざわ感に繋がるんだ
ろうか。(鹿取)
★評者が「『級木の葉がひるがえる』を心の必然として詠っており」と書かれているけど、どうい
うことですか?(真帆)
★作者は会葬の場でいろんな景がある中でぱっと級木を捕まえたと思うんです。でもなぜ級木かは
歌のできる現場で理屈では語れないと思うんです。直接級木が作者に響いたんだと思います。
(慧子)
(後日意見)
岡野弘彦に「またひとり顔なき男あらはれて暗き踊りの輪をひろげゆく」(『蹌踉歌』)がある から、「ふしぎ」は意図的である。(田村広志)
(後日意見)(2021年2月)
いまや多磨霊園は生者と死者の区別のない時空を超えた空(空間)となり、級木(しなのき)は葉をひるがえして、会葬に集い来た人々とともに埋葬された人を悼むのである。が、生者たちはそのような級木の存在に気がつかない。なんという不可思議(不条理)なことか。死者も同様に会葬に参加していることが分からない生者(人間)は傲慢である。(S・I)
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます