かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

追加版 渡辺松男の一首鑑賞 150

2021-02-06 17:23:41 | 短歌の鑑賞
    ブログ改訂版 渡辺松男研究 18   2014年8月
       【夢解き師】『寒気氾濫』(1997年)65頁~
       参加者:泉真帆、鈴木良明(紙上参加)、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
        レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放


◆末尾の(後日意見)(2021年2月)の部分を追加しました。
◆文章中、塚本邦雄の「邦」の正字が出せませんでした。申し訳ありません。

150 沈黙のおんなに凭りかかられてみるみる石化してゆく樹幹

          (レポート)
 そこにいる「おんな」は「沈黙」のまま樹に凭りかかっている。沈黙がかろやかなたたずまいを見せる人もあろうが、そうでない場合もあり、精神のいきいきしていない人に凭りかかられると樹といえどもたいへんな圧迫かも知れない。沈黙の圧迫による樹幹の困惑や疲労を「みるみる石化してゆく」として、うつろう時をかたちにし、読者に示す。(慧子)
   

        (紙上意見)(2014年月)
 斎場の樹木に凭れて、故人を偲んでいる沈黙の女。凭れかかられている樹幹は、その嘆きの重さにたちまち石化していく。塚本邦雄の歌をベースに面白く表現している。(鈴木)


             (当日発言)(2014年月)   
★塚本邦雄の『水葬物語』に「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」が
 あります。ただのパロディではなく、対比して作っている。沈黙の女には何か重いものがあって
 それに凭りかかられるので何か固まってしまう歌だと思う。ただ、肝心なところを味わえていな
 いのですが。樹幹というのは、木の中の役割をきちんと言いたかったのではないか、根に続く樹
 幹であるよということ。語らぬものの沈黙の訴えによって動けなくなってしまったものをいいた
 かったのではないか。(真帆)
★塚本邦雄の第一歌集『水葬物語』の巻頭歌だから誰でも知っていますよね。塚本にとっても処女
 歌集の巻頭歌だから非常に思い入れがあるはずですし、元の歌の辛辣な批評意識とか苦さとかは
 周知のことだと思います。その本歌取りをするのだから、渡辺さんにも相当な覚悟とか思い入れ
 があるはずなんですけれど、私はもう一つこの歌が分からないです。真帆さんが言った「語らぬ
 ものの沈黙の訴えによって動けなくなってしまったもの」というのはそうなんだろうと思うし、
 鈴木さんの「斎場の樹木に凭れて、故人を偲んでいる沈黙の女」という解釈も、唐突に女が出て
 きたように思ったけど、なるほど一連の流れの中では故人と深いかかわりのあった女か、とも思
 うんですけど、作者の意図とか本質的な部分が自分ではつかめないでいます。(鹿取)
★国のことだったりしますか?「沈黙のおんな」でどこかの国を例えたり。(真帆)
★それは違うような気がする。この一連にいきなり外国への風刺とかは出てこないんじゃないかな
 あ。(鹿取)


            (後日意見)
 塚本は「革歌作詞家」を風刺しているが、この「沈黙のおんな」は風刺の対象なのか、鈴木さんのように故人を偲んでいる労るべき存在なのか。私は風刺の対象と読んだが、溶けてゆくピアノは「すこしづつ」で、石化する樹幹は「みるみる」だからスピード感が違う。この歌は塚本のパロディであり、何か滑稽味を狙った者なのだろうか。ちなみに、『寒気氾濫』の出版記念会に主賓として列席された塚本氏は、この歌については何も発言されなかった。(鹿取)
     

           (後日意見)(2021年2月)
  「沈黙のおんな」は夕暮れの多磨霊園でひっそりと樹木に凭り、樹木(おとこの具象)と共振し、交感して亡くなった「おとこ」を偲んでいる。樹幹はそんな「おんな」に欺瞞を感知して、硬直する。そして、みるみる石化して、拒否反応を示すのである。この歌は塚本邦雄の『水葬物語』
「革命歌作詞家に凭りかかられてすこしづつ液化してゆくピアノ」の本歌どりと思われる。歌手法として、まず、気づくのは語句を対照化させていることの巧みさである。
  沈黙のおんな」「革命歌作詞家」
「革命歌作詞家」は外に向かって華々しく人々を鼓舞するような動的イメージを喚起するが、「沈黙のおんな」は内向的で、無言で男を悼んでいる、静的なメージである。
  「みるみる石化してゆく樹幹」「すこしづつ液化してゆくピアノ」
 「みるみる石化してゆく樹幹」では、樹木(生物)がみるみる石化(無機質)してゆく空間が表象されるのであるが、「すこしづつ液化してゆくピアノ」では、ピアノ(無機質)が生物のように少しずつ溶け行く時間の経過が表象される。この両作品から塚本と渡辺氏の作家姿勢の違いをよみとることができる。上記で渡辺氏が塚本作品の完璧なパロディーを意図するなら、「おんな」よりも「鎮魂歌作詞家」とした方が明確であろう。が、それは渡辺作品の特徴である抒情性、物語性を奪うことになる。渡辺氏は「物」を語る人なのである。「おんな」は「革命歌作詞家」のように概念化された暗喩ではなく、亡くした「おとこ」を悼んでいる固有存在の暗喩である。そして、かってそうだったように凭りかかって親愛の情を示すのであるが、樹木である死者はそのような交情を受け入れない、これは「おんな」(生者)にとって耐えがたい不条理なことである。が、それが死者であり生者であること、そしてこの世の真実なのである。
 塚本は「事」を語る人である。塚本作品では、現実世界にはありえない事態、「革命歌作詞家」がピアノもろともに溶け出すという「事」が語られ、世界が解体され、それまでの常識や価値観が破壊されるような、いわばダリの絵にある変形された時計のような衝撃的イメージが提示される。
このような塚本の詠法には、明らかに社会に対する批評精神がみられるのであるが、渡辺氏の場合、社会というよりも、実存存在としての個が世界とかかわる在り様を問いかけているのである。この歌はカミュの不条理文学と言われる『変身』を想起させる。最章では、毒虫のグレゴールが亡くなり、生きんがために妹が新しい就職先の話を父親としている日常の場面で終わる。グレゴールが樹木の樹幹なら、沈黙のおんなは妹であろう。死者となったグレゴールと日常を負った妹には超えがたい断層があるように、亡き人との交流を阻まばれたこの女には、救いがないように思える。樹木が対等に人と交流し、共存する作品が多い渡辺作品にあって、この歌は異色である。(S・I) 

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