かまくらdeたんか 鹿取未放

馬場あき子の外国詠、渡辺松男のそれぞれの一首鑑賞。「かりん」鎌倉支部の記録です。毎日、更新しています。

渡辺松男『寒気氾濫』の一首鑑賞 143

2023-11-12 12:41:27 | 短歌の鑑賞
 2023年版 渡辺松男研究 17  2014年6月
      【Ⅱ 宙宇のきのこ】『寒気氾濫』(1997年)62頁~
      参加者:泉真帆、鈴木良明、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
      レポーター:鈴木 良明 司会と記録:鹿取 未放
            

143 神は在りてもなくても秋の大けやき宙宇に赤ききのこを張れり

      (レポート)
 高い大けやきの枝分かれしたところに赤いキノコがいっぱい押し拡がっていたのだろう。普通キノコは地面に近いところに生えるはずなのに、秋の黄落で見通しが良くなっている高枝の根本に、まるで宙宇に張られているように生えている不思議さ。上句の「神は在りてもなくても」に、「神」がこの世界をつくったとする過去の世界観とは異なる、現実に存在していることを思考の出発点とする実存主義的姿勢が見えるのである。(鈴木)
 
       (当日発言)      
★神はあってもなくてもいいや、っとなったのは実存主義が出発点だと思います。とに
 かく私はここにいるのよというのが出発点。「現実存在が本質に先立つ」というサル
 トルの言葉があるけど、そういう立場からうたっているのかなと。(鈴木)
★宇宙から見た風景なのかなと。(泉)
★このきのこはけやきの紅葉のことで、ほんとうのきのこじゃないんじゃない?(慧子)
★私もそう思います。大きなけやきが紅葉して立っているのを赤いきのこと言ってい
 る。「張れり」の能動が意志的で面白いし、それを宇宙的な大きなスケールで捉えて
 いる。秋の澄んだ空気の中で大きなけやきがまっ赤に紅葉してたくましく立ってい
 る。松男さん、木が好きだから、これもいつも親しんでいる木なのでしょうかね。そ
 の感動的な姿を見ていると、神はあってもなくてもこういう美しい木が存在する、そ
 れで十分じゃないかという気になっている。おおらかでせいせいする歌ですね。
    (鹿取)
★渡辺さん、無理な見立てはしないから、けやきをきのこに例えているんじゃなくて、
 やっぱりけやきにきのこが生えていてもいいんじゃないかな。まあ、どちらでもとれ
 ると思うけど。やっぱり不思議さですよね。(鈴木)
★上の句に実感がある気がします。(慧子)


      (後日意見)(2021年1月)
 大きなけやきが紅葉しているのを、時空を超えた、あるいは宇宙から眺めた視点で「赤ききのこを張れり」と詠っているのですね。「実存主義」のテーゼは「現実存在(実存)は本質に先立つ」で、この歌では「現実存在」はけやきの紅葉、「本質」はきのこと捉えるべきです。つまり「現実存在」はそれが現実の存在であるもの、実存=即自であり、「本質」はそれがあるべき存在、すなわち対自なのです。と、すると鈴木氏のレポートでは、あべこべに捉えているということにならないでしょうか。「神は在りてもなくても」は「神は死んだ」といったニーチェを意識したのでないでしょうか。「神は死んだ」、絶対的な権威や価値が喪失して、世界はニヒリズムに陥っているが、そんなことにはかかわりなく、ありのままの美しい自然の姿に感動する、それで十分だ。つまり、渡辺氏はニーチェあるいは西洋哲学を否定し、現実をそのまま受け入れる東洋的境地を詠っているのではないかと思っております。(S・I)


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