書肆侃々房『寒気氾濫』
本阿弥書店『寒気氾濫』
♡♡渡辺松男さんの第一歌集『寒気氾濫』の新装版復刊が書肆侃々房から出版された。
1997年に本阿弥書店から出たものは絶版で手に入らなかったので、待望の復刊である。
今まで手に入らなかった方、ぜひ手に取ってみて下さい。
渡辺松男研究39(2016年6月実施)『寒気氾濫』(1997年)P133
【明解なる樹々】『寒気氾濫』(1997年)133頁
参加者:石井彩子、泉真帆、M・S、曽我亮子、渡部慧子、鹿取未放
レポーター:渡部 慧子 司会と記録:鹿取 未放
325 一本のけやきを根から梢まであおぎて足る日あおぎもせぬ日
(レポート)
暮らしの傍に欅がある。なんとなく余裕があると根から梢まであおいで心のみちる日がある。また、何かにせかれていたり、考え込んでいて目もくれなかった、そんな日もある。欅を巡って作者自身を軽くスケッチしていよう。(慧子)
(当日意見)
★構成が単純なので軽いスケッチととられたのかもしれませんが、この歌はとても深い歌だと思う
し、生き方の原点のような歌の一つだと思うのですが。(鹿取)
★生活のリズムとかいうのではなく、精神的な大切なことという意味ですか?(石井)
★説明が難しいですが、あおぐといっても別に樹の表面を眺めているわけではないですよね。当然、
心の深いところで樹と対話しているわけです。だから「あおぎもせぬ日」というのは精神が殺
伐としているのでしょうね。(鹿取)
★見てるのは現実の欅なのですか?(石井)
★この場合は現実の欅だろうと思います。いちおう、自分の外側にある対象としての樹なんじゃな
いですか。(鹿取)
★じっさいにある欅だと思います。『けやき少年』というこの作者の歌集が少年時代を思い出した
ものなので、特別な思い入れが欅にはあるんだろうと思います。レポーターが「軽くスケッチ
していよう」と言ったのは下句がとても大きく捉えられているからでしょう。(真帆)
(後日意見)
たとえば「樹木と『私』との関係をどう詠うか」(「短歌朝日」2000年3、4月号)という渡辺松男の文章がある。どの部分も重要だし、一部分を引用すると文意が通じない恐れもあるが、
著作権の問題もあるので、一部を引用する。作者が樹をどう見ているか、少しは参考になるかもしれない。(鹿取)
……実際に歌を作るときは木と一体化したいと思うだろう。外側にいるだけでは満足でき
ないだろう。木の実態を踏まえつつ、自ら詠おうとする木のなかへ入っていこうとするだ
ろう。木の対象性を超越しようとするだろう。主客分離において成立する認識は越えられ
なければならないだろう。木という生と死の一体となった感情のような呼びかけを待ち、
木が語りかけるのを待つ。その声は結局自分の声かもしれないが、同時に木の声でもある
だろう。木に呼ばれているときに私は私を実感するはずだ。木のなかで私を現象させてみ
たいと思うし、私のなかで木を現象させてみたいとも思う。( 3行目の「越え」は、ママ )
……私と木との関係はダイナミックで、私の思いのなかに閉じ込めようとしてもはみ出し
てしまう部分、そこに木の本領があるのだし、そこに私は引かれる。木の器は相当に大き
いので私の人間的解釈を充分に許容するだろうが、木はそこからあっという間にはみ出し
てしまう。つまりこれこそが木というものだというものはない。
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