「悔い改め」をしたからと言って、幸せになると言う訳では有りません。悔い改めをして自分の内面は変わったからと言って、世間や社会は今までのままで、今まで通り世間や世の中からの不幸に感じる報酬を受けなければなりません。洗礼を受けてクリスチャンになったからと言って、その後に幸運が訪れる訳では無い事と同じで、悔い改めをしても、その後同じ様に苦しみを背負って生きて行かなければなりません。ただ、悔い改めをしたりキリスト者(クリスチャン)になる事によって、同じ様な事があっても、その事に対しての捉え方が以前とは異なったり、見方が異なったりする事になります。それが、希望・恵みに繋がる忍耐を持つ力に成ると言えると思います。
冤罪・犯罪被害者や出所者、被差別者等の様に、偏見やレッテル等を貼られた場合に、社会復帰も思う様に行かず、雇用機会も失われてしまいます。しかし、キリスト者の場合は、敢えてその様な「自分の十字架」を背負って生きる事を受け入れなければなりません。イエス・キリストが全ての人の罪の贖いの為に十字架上で殺されて犠牲になられた様に、旧約時代の預言者達やキリストの弟子達が敢えて迫害を受けて殺されて行きました。その当時は特に、クリスチャンにならない方が世間や社会から迫害されず、此の世からの幸福に感じる報酬を受ける事が出来たにも関わらず、敢えて苦しみを受けた訳です。
キリスト者は、他者を責めたり裁いたりしてはいけないと言う事を聖書から教えられる事から、とかく自虐的になりがちです。それ故、自分の弱みを曝け出したりして自分を低める傾向に在ります。謙遜であり謙虚な心と姿勢であります。
それらは「悔い改め」をする上では必要な事なのですが、それによって世間や社会からは迫害を受ける事に繋がる可能性が有ります。人々は皆、自分の弱みを内に隠して人に知られない様にし、周囲からいじめ・迫害を受けない様に虚飾で覆ったり、自分の虚しい力、世間的に認められる為の肩書きや名誉を身に付けたりしています。
普通は、神様との祈りの中で罪を告白するだけで、他人には聞かれたり見られる事が無く、秘密にすることが出来ます(カトリックの場合は、神父(司祭)が神様と信者との仲介をする様な形で、神父が信者の罪の告解(ゆるしの秘跡)をします)。
私の場合も、名誉やプライドを守る為に「怒り」を持って、喧嘩等をして「自分で」対処して来ました。しかし、権力も地位も所有した王様であったダビデは、常に神様に助けを求め、自分で解決しようとせず、神様を自身の身の避け所とし、神様に常に寄り頼んでいました。ダビデ王は、神様の前に在っては小さく弱い者であり続けました。
此の世に生きる限りは、世間や社会の中で生活をせざるを得ず、世間や社会の在り方を否定したり批判したからと言っても共に居なければ仕方が有りません。此の世の様々な物事に空虚感を抱いたからと言って、この世で生活する以上は付き合わざるを得ない部分が有ります。それらの事に対して、私は正直な所、不器用な性格で世渡りが下手な事もあって上手くは出来ていません。少なくとも、馴れ合いや迎合、媚びへつらう事は出来ません。
冤罪・犯罪被害者や出所者、被差別者等の様に、偏見やレッテル等を貼られた場合に、社会復帰も思う様に行かず、雇用機会も失われてしまいます。しかし、キリスト者の場合は、敢えてその様な「自分の十字架」を背負って生きる事を受け入れなければなりません。イエス・キリストが全ての人の罪の贖いの為に十字架上で殺されて犠牲になられた様に、旧約時代の預言者達やキリストの弟子達が敢えて迫害を受けて殺されて行きました。その当時は特に、クリスチャンにならない方が世間や社会から迫害されず、此の世からの幸福に感じる報酬を受ける事が出来たにも関わらず、敢えて苦しみを受けた訳です。
キリスト者は、他者を責めたり裁いたりしてはいけないと言う事を聖書から教えられる事から、とかく自虐的になりがちです。それ故、自分の弱みを曝け出したりして自分を低める傾向に在ります。謙遜であり謙虚な心と姿勢であります。
それらは「悔い改め」をする上では必要な事なのですが、それによって世間や社会からは迫害を受ける事に繋がる可能性が有ります。人々は皆、自分の弱みを内に隠して人に知られない様にし、周囲からいじめ・迫害を受けない様に虚飾で覆ったり、自分の虚しい力、世間的に認められる為の肩書きや名誉を身に付けたりしています。
普通は、神様との祈りの中で罪を告白するだけで、他人には聞かれたり見られる事が無く、秘密にすることが出来ます(カトリックの場合は、神父(司祭)が神様と信者との仲介をする様な形で、神父が信者の罪の告解(ゆるしの秘跡)をします)。
私の場合も、名誉やプライドを守る為に「怒り」を持って、喧嘩等をして「自分で」対処して来ました。しかし、権力も地位も所有した王様であったダビデは、常に神様に助けを求め、自分で解決しようとせず、神様を自身の身の避け所とし、神様に常に寄り頼んでいました。ダビデ王は、神様の前に在っては小さく弱い者であり続けました。
此の世に生きる限りは、世間や社会の中で生活をせざるを得ず、世間や社会の在り方を否定したり批判したからと言っても共に居なければ仕方が有りません。此の世の様々な物事に空虚感を抱いたからと言って、この世で生活する以上は付き合わざるを得ない部分が有ります。それらの事に対して、私は正直な所、不器用な性格で世渡りが下手な事もあって上手くは出来ていません。少なくとも、馴れ合いや迎合、媚びへつらう事は出来ません。
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