AYUKO Soul Quest. "スピってるがフィジってる"

元気になってくれ。
自分にときめいてくれ。
そして愛を見つけてくれ。

シャネルとベンツ

2018年04月19日 | 女性であること、のあれこれ
なんだか、今回のタイトルはゴージャス感漂います。

またまたご無沙汰してしまいました!
みなさま、お元気ですか?
AYUKOです。

バタバタの4月ももうすぐ終わり。
花粉もそろそろさようなら。(まだヒノキがいるけど)
ゴールデンウィークに向けて、
美しい新緑の季節がやって来ますよ〜〜

なぜ、急にシャネルなのか。そして、ベンツが来るのか。

今日、Facebookでね、
去年デビューした、14年ぶりの新しい香水である、
シャネルのガブリエルという香水について投稿しまして。
私はシャネルの香水loverではないのですが、
一昨日「COCO CHANEL」という、
彼女の半生を描いた映画を観まして感銘を受けて、
で、彼女の本名であるガブリエルという名前の香水が出たと聞いて、
早速amazonでわざわざサンプルを購入して、
今日届いたという。
投稿では、その香水の印象を書いた、というお話。

なんだけど、
その後、色々考えが(例によって急に)溢れ出てきたわけです。

これ、あくまでも「私の考え」なので、悪しからずよ!

結論から申し上げますと、

日本においてのシャネルって、日本においてのベンツと同じだよね

ここで、「わかる〜〜!」と思った人は、私と感性(?)が同じです。
ポイントは「日本において」ね。これ、世界規模の話じゃないから。

では、説明しよう。

シャネルもベンツも、モノとしては最高級です。
これは誰も否定しまい。
が、しかし。
「日本において」シャネルを(香水も含め)身に付けている人、
「日本において」ベンツに乗ってる人、
って、往々にして最高級ではない・・・ように見える。

もちろん。
最高級のブランドでもって、
自分のステータスを誇示するというのも良かろう。
ご自分がそのようなステータスをお持ちならば。
上流階級の人々はそういうのを社交の場で楽しむわけですから。

が、しかし。
私にとっては、最高級の人々イコール上流階級の人々ではない。
確かに、これらはお金をたくさん持っている人でないと買えないので、
そうなると、その点で言えば、
社会の「経済的上層部」にいないといけないんだけど。


シャネルやベンツクラスのものを携える人というのは、
それらと同等、いやそれ以上の存在感とエレガンスがないとダメなのです



シャネルやベンツを「使って」
自分を誇示したい程度の人がそれらに手を出すと、


はっきり言って品がない。


「そういうクラス」のものだからこそ、
それらのブランドが持ち主よりも主張してしまうようでは、
持ち主の「しょぼさ」が際立つというものだ。

だからこそ、持ち主の「存在感」が大事なのだ。
「モノに呑まれない」、凛とした存在感。

そして、なんと言っても、「エレガンス」。
衣服のことを言ってるのではない。
その人の内側から出て来る、嘘のつきようのないエレガンス。

最高級のブランドが放つ主張に勝ち、
更にそれを制御できる「持ち主の存在感とエレガンス」。

最高級のモノを携えておきながら、
そこに「品のなさ」があるとしたら、
それは「富と名声」に対する「貪欲さ」が持ち主にあるからだ。
それはエレガンスと対局にあると思うし、
持ち主の存在感のなさは「自尊心の欠如」だと思う。

貪欲さが悪いわけでも、
自尊心の欠如が悪いと言っているわけではない。


ただ、
最高級のものを最高級に身につける、
というのは、そうたやすくないのだ。
でも、人には「憧れ」というものがある。
「まずは外側から固める」という手だってある。
そうやって、自分を「高める」という手もあるだろう。


私個人的に、
シャネルやベンツを「自分の一部」という感じで、
嫌味なく、さらりと、ごく自然に、携えている人、
そういう人が「ふさわしい」と勝手に思ってる。
そういう人が「素敵」と勝手に思ってる。

自己顕示と、カッコつけのためというのは、
私にとってはまさに「興ざめ」なのだ。

だから、極端なことを言えば、
キラキラ輝いて生きて、お手頃価格でも自分の好きな香水を付けて、
軽自動車に乗って颯爽とゆく、人の方がよっぽど魅力的なのだ。


まあ、私はベンツを買うお金がないので「遠いお話」ですが、
シャネルの香水ならば、私でも買える。

が、しかし。
「日本においてのシャネル」の立ち位置を考えると、
非常にリスキーなのである。
「シャネルの香水付けてる人」になるのか、
「素敵な香りの人」になれるのか。
もちろん後者でないと、私にとってはバッテンなのだ。


で、我、思う。


己のエレガンスと存在感を・・・あぁ。





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アラフィフに向けて

2018年01月26日 | 女性であること、のあれこれ
アラフォーとか、アラフィフとかって言いますが、
私の個人的な定義として、
アラフォーは38歳〜43歳。
アラフィフは48歳〜53歳。
一般的定義はわからないんだけど、
何となく私の中では上記の通りでして。

私は現在46歳で今年47になるんだけど、
私の定義からいえば、アラフォーでも、アラフィフでもないお年頃でして、
でも確実に50は近づいている、という。

20、30、40、50、とかっていう、10の位が変わる時って、
毎度ドキドキするというか、節目感があるというか、
確かに10年間というなかなかの期間を共にしてきた10の位の数字が変わるわけだから、
まあそれなりに感慨深いことなのかもしれない。

それに40を過ぎると、
「ああ、いよいよ人生も折り返し地点か〜」とかなったりして、
同時に「ああ、いよいよ歳を取ってゆくのだわ〜」とかなったりして、
特に女性にとっては、美しくエイジングか!アンチエイジングか!とかなったりして、
どうも40を過ぎると、何やら様変わりするような感じがする。

とは言え、
60代とか70代のお姉さま方からしたら、
私などは「あら〜〜、まだ若いわね〜〜、今が一番綺麗なときよ〜」
ってな感じかもしれないが、
私はまだお姉様方の「域」に行ったことがないので、
「ぎゃ〜〜50が確実に近づいている〜〜」とおののくわけだ。

思えば、40になる時もそんな感じだったような気がするが、
未知の世界の恐ろしい40代も、なってみれば楽しいもので、
それなりに美の追究も充実し、「なかなか、くるしゅーない」と言った感じで。

しかしながら、
色々な衰えというのが、「40代の道」には現れて来るもので、
それは30代にはなかったものだ。
で、40代の真ん中を過ぎると、いよいよそれらが顕著に出てきて、
「もしや、これって、どーにもなんないじゃねえ?」という、
もはやにっちもさっちも行かないような現象を認めざるを得ない状態となり、
「己を受け入れる」という、「自己啓発系の先生方」が口を酸っぱくして言い続けているアレの意味が、
ようやく分かってくるというか、
「TO BE OR NOT TO BE」くらいの選択を迫られる事態の中、
ほぼ敗北感に近い形で、己を受け入れる訳である。


さて、以前の投稿でもふにゃふにゃ書きましたが、
私にとって「どうしたらキレイに見えるか。いい感じに見えるか」という
女としての美の追究みたいのは、諸々のコンプレックスが原動力となる「趣味」な訳ですが、
これから益々「コンプレックス(?)」が増えていくであろう中、
どうしたものかと。
そして、「そうだ!参考にできる、目指したみたいと思えるRAW MODELが私に必要だ!」と思い立ち。
私よりも若い方々は今や参考にはできないので、40代50代というところで、考えました。


そして。

先日はダイアン・レイン。
昨日は、キム・ベイシンガーなんかをググって、画像なんかを拝見しましたよ。
はい。目標は高く。夢は大きく。
ふむふむ。

彼女たちはナチュラル系と言いますかね。
ナチュラルに美しく、セクシーで、大人の女ってこうなんだわ、という。

Sex And The CityのSamanthaとか、はたまた叶恭子さんまで行くと、
もはやアッパレとしか言いようがなく。
Sexualityをいくつになっても全面に出してゆくというのは、
なかなか勇気がいることだし、リスクもあるし、賛否両論にもなるだろうけど、
我が道を全くの迷いなしに進んでいる人たちはすごいし、強い。

また個人的にかっこいいなと思うのはロックミュージシャンでしょうか。
若い頃からのロックスピリットというのが損なわれることなく、
おばさまになってもロックしてて、それまたかっこいい。
まさにロングランで培った賜物だ。
なので急にロックなおばさんには絶対なれないので、私は無理です。

で、結局ね、
それでもみなさま「おばさま」なのです。
どう見ても、おばさまなのです。
若い女の人ではないのです。

「対若い女の人」という、変なこだわりを捨てない限り、
本当の意味で素敵なおばさまにはなれないのではないかと。
それでも。
いつまでも美しい肌で、美しい髪で、美しい肉体で、と願い、
色々手をかけるというのが、女性なのかもしれないけど。


ただ一つ言えるのは、
男女に関係なく、歳をとればとるほど、
その人が生きてきた様が「雰囲気」に出るということでしょうか。
「雰囲気」だけは、外側の飾りだけではカバーできないもので、
また一日二日で身につけられるものでもない。
ある意味、自己啓発的「己を受け入れる」、
つまり自分が歩いてきた道を、生きている様を受け入れる、
ということが、「だからこそこの人はこの人で、それが素晴らしい」という、
確固たる空気が雰囲気に出るのかもしれない。


で、おばさま街道をこのまま歩んでいく私ですが、
「どうありたいか」というのは、多分、ずっと続く、
というか、その時の自分の有様や、人生の有様に応じて、

暗中模索
右往左往
七転八倒
絶体絶命
危機一髪
(その他、それっぽい四文字熟語全部)

しながらやっていくのだろうな、と。
でも、ここからもう死ぬまで「ALL SET」よりは、
あーでもない、こーでもないしてる方が楽しそうだ。



ダイアン・レイン・・・キム・ベイシンガー・・・


どーやったら、あーなるんだ。


なんなら、叶恭子さん・・・うっひゃひゃー


ってんな感じで。うふふ。





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母の美意識

2017年08月10日 | 女性であること、のあれこれ
友人のお母様は介護施設に入っていらっしゃるのだが、
お誕生日(今日!)ということで、
おうちに数日戻っておいでになるという。
そこで私は、

「夏休みの間だけ、爪にマニキュアを塗って差し上げたら?
女はいくつになっても女だし、きっと喜ばれて、
表情がパーーーッと華やぐわよ!」

なんて、余計なお世話かもしれない提案をしてしまった。


そして、私は自分の母のことを考えた。
現在母は74歳。
いつの間にこんな年に。
今のところは元気に暮らしている。
彼女は昔からそうなのだが、
実年齢よりも相当若く見られる人で、
今も「70代ですか!?」ってくらいに、
相変わらず若々しく、美しく生きている。
まー、今も昔もモテる人で、
ちょっと前にもバス停でおじさまにナンパされたとかで、
もちろん彼女はお断りしたのだが、

「でも、松濤(渋谷)の方に歩いて行ったから、
もしや松濤に住んでるお金持ちだったかもしれないわー」

なんて言っていた。
私も「そうよ、そうよー!お茶くらいしても良かったんじゃなーい?」
とかいい加減なことを言ったりして。


そんな母も、
いつか自分でお化粧をしたり、
爪にマニキュアを塗れなくなってしまうかもしれない。

もしそうなったら、
私が塗ってあげようと思う。
母の定番の色はボルドーっぽい赤。
年取ったら薄い色は手が汚く見えるからってんで、
もうずっとその色をつけている。
口紅もいつもそんな色をつけているので、
フルメイクはやってあげられなくても、
口紅だけでも塗ってあげようと思う。

母が生きている限り、母らしくいられるように。


母は昔から美意識の高い人であった。
洋服、バッグや靴、アクセサリーのコレクションと言ったら、
「頼むから、死ぬ前にこれらをなんとかしてください」
と言いたいくらいのすごさである。
買ったけど着てませんっていう服もたくさんあるから、
もはや病的の域だと私は思っている。
(その他、インテリア小物、食器など)

でもそんな母は私にとって
いつも綺麗にしている自慢の母であった。
「綺麗なお母さん」は子供にとって嬉しいものである。

私が大人になってから母によく言われ続けていることは、
「毎日、お化粧だけはきちんとしなさい」ということで、
そのセリフは母の母(私の祖母)から受け継いだものらしく、
多分、そのまま私の娘にも受け継がれていくのであろう。


私の性格は母のとは大分異なるのだけれど、
毎日お化粧をする、だとか、綺麗にしてましょう、だとかいうのは、
母の影響は大きいと思う。
実際にそうして綺麗にしている母を持ち、
そういうのを見ながら育ち、
時にはダメ出しもくらいながら、
今の私が出来上がっている。

ただ大きく違うのは、
母には自由になるお金が大層あったのと、
本人がまたそのようなスタイルが好きだったのもあって、
衣類は高級なものばかりであった。
私はというと、自由になるお金が大層あることもなく
「そっちの方向」にはついぞ行くことはなかった。
アメリカにいたことも大きいのか、
あと音楽の道に行ったこともあるのか、
いかにカジュアルでシンプルなもので、
かっこよく見せるか、というのが焦点で、
衣服にお金はかけられないなら、
せめて体のプロポーションだけはベストに維持しておこうと思った。

ではあるけれど。

衣類に限らずだけれど、
やはりいいものはいい。

そして、いいものは高い。

で、やっぱりいいものはいい。

少なくとも、そういうところは実感して学ぶことはできたと思う。
とは言え、私も今年46歳。
四捨五入すれば50歳(初老か?)という、完全なるおばさん、
良く言えば(?)完全なる大人の女である。
若い女の子は全身安物でも美しいが、
私の年齢など、もう、どーにもこーにも、
もはや誤魔化しなど効くわけがなく、
せめてピンポイントでも良いものを身に着けないことには、
憂い感たっぷりになってしまうのである。

そこでAYUKOママ登場。


どうせ全部残して死んでゆくってんで、
買ったけど自分には大きすぎて使わないとかっていう「お高いバッグ」とか、
やっぱり私はシルバーカラーは似合わないわってんで「本物のアクセサリー」など、
「金目のもの」を私に譲ってくれるのだ。
以前は毎年お誕生日にアクセサリーを贈ってくれていたこともあり、
私にも、ささやかではあるが「本物のアクセサリーコレクション」がある。
全身ユニクロでも、それらのおかげでなんとかバランスを保っている。

そうは言っても、
今や、母だってなんでもかんでも高級品という訳ではない。
普段はユニクロ全開。
だけれど、部分的に良いものを使って、素敵に見せている。
そいういう工夫で、全体が素敵に見えるようにしている。
「ユニクロがユニクロに見えない」というテクニックである。


んなら、私にもできるのでは。


友人のお母様のお誕生日の話から、
母のことを思い考え、
「皆年をとり、いつかこの世を去るのだ」と
急に胸がぎゅーっとなったけれど、
今もこうやって色々なことを私に教えてくれていて、
何よりも変わらぬ華やかさと若々しい笑顔を思い浮かべるにつけ、
母が今後も母らしく生きてゆくことを願い、
泣くのは母が本当に死んでからにしようと思った朝である。





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原動力はコンプレックスです

2017年08月05日 | 女性であること、のあれこれ
昨日、(40代以降の)ヘアスタイルについて
ここで書かせていただきましたら、
Facebook上ですが、色々なコメントをいただきました。

エイジングのことだったり、
その上での美意識のことであったり。

そして、
「違うところに時間を使いたい」とか
「人の良いおばさんを目指したいな」など

そうか!それぞれの「在り方」があるのだ

と、当たり前のことを忘れ、自分の視界の狭さを感じました。

そこで私は自分のこれまでを振り返りました。

「可愛くなりたい。きれいになりたい。」というのは、
私は昔からあったように思います。
だから、着るものとかヘアスタイルとか、(のちはメイクとか)
小学校高学年くらいからとても興味があって、
10代もずっと「おしゃれ大冒険」だったと思います。
(実際におしゃれだったかどうかは疑問だけど。あはは)

なぜでしょう。
まあ、女の子はお年頃になると外見を気にするものでしょうし、
背伸びしたい時期などでもあります。

私は決して「美人」ではありません。
10代の頃は背が高いのも嫌だった。(ザ・日本文化)
お年頃だったのもあるのでしょうが、
外見においてたくさんコンプレックスがあったので、
いつも「あの人かわいいなあー。きれいだtなー。
ああいう風になれたらなあー。」と
「憧れの人」が周りにも、芸能人にもたくさんいた。
なかなかそうなれない自分に涙したり。


ああ、10代ってめんどくせーーーー


とまあ、そんなありがちな10代をなんとかかんとか乗り越えましたですよ。
でも、いつもいつも「どーしたら私が思う素敵な感じになれるだろう」って考えてた。

大学でアメリカに行った時は大分青春を謳歌しました。
アメリカだからこそアジアンビューティ(黒髪とかね)が力を発揮するし、
その頃体もスーーッとスリムになったのでいろんなスタイルを着こなせるようになった。
(背が高くて良かったと初めて思うことができました)
あと!
初めての「男女共学」ということで、
「いつも素敵にしてよう」スピリットが目覚めました!

かなり大雑把ですが、そうやって今に繋がっているのです。

とは言え、私の今の美意識革命(大げさ)のきっかけとなったのは、
40歳前後の二人の子供の出産による激太り&一念発起のダイエットです。
子育てのため5年ほど「何もかもから休業」。
気づいたらエラいことになっていました。

そこで昔の私が蘇ったのでしょう。

アンタ!そもそも素敵でいたいんじゃなかったのか!?思い出せ!

と。

ダイエットはもはや執念で成功させました。(20kg)
そして「ああなりたい。こうなりたい。」の私が戻ってきました。

昨日のブログのコメント欄にも書かせていただきましたが、
そもそも私は「自分を素敵に見せること」にとても興味があるのです。
そして、40代になって気づいたことは、
「何か手を加える」と「何もしない」に大きな差が出てくること。
そして、私はそれが非常に面白いと思っていること。
おばちゃん年齢だけれど、
じゃあ、どうやったら私が素敵と思う素敵が実現するのだろう?
と色々工夫してみるのが楽しいのです。

結論としては


これは「どうやったら綺麗になれるか」模索するという「私の趣味」です

ということ、そして、

原動力は小さい頃からのコンプレックスです!

ライフワークですわぁ〜〜




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ロングヘアー〜細木数子様に抗って〜

2017年08月04日 | 女性であること、のあれこれ
ヘアスタイルで人の印象は大きく変わります。
自分の見せ方のカテゴリーの中でも、
衣服と並んで大きな部分を占めている。


現代では男女とも、
長髪だろうが短髪だろうが、
カラーやパーマも含めて、自由にスタイルを選べます。


私は下の子供を産んでから
ショートボブから伸ばし始めて、
ここ2年くらいはいわゆるロングヘアです。

そして思い出す。
かつて細木数子さんが仰せられた言葉・・・


結婚した女がロングヘアにするのはおかしい


ひえ〜〜〜〜〜〜。
しかもその言葉を聞いていた私は、
まだ未婚で優等生奥様を目指していたので、
「そうだ、そうだ!」なんて思っていたよ。

なんじゃ、そりゃ!

と、今なら言える、
と同時に細木数子様のおっしゃることも分かる。


要は、誰かの妻となった以上、
長い髪でもって、いつまでも「女」をアピールしてんじゃねーよ。


ってことよ。
はいはい。

でね。
なぜ細木数子殿の言葉に抗って、
結婚していながら、しかもこの年でもって長髪にしているのかというと・・・


まだ落ち着きたくないから。


今の私が髪を肩までとか、ショートに切って、
いい感じにセットすれば


さぞかし「いいとこ風の奥様」になるでしょう


ハツラツとしてエレガントな良妻賢母ですわ。
(私は良妻でも賢母でもないですが)

ですが、私の場合、「やっぱ歌を続けるわ」となった時に、
レコーディングに行く時やステージに立つ時、


良妻賢母風じゃカッコつかねーだろ


という、ごくごく単純な理由で持って、
ロングヘアーにハイライト&カラー、パーマってなった訳です。

ここで最近よく出てくる「余談」ですが。
私の持論ですが、
40過ぎてロングのストレートヘアは危険
いや。No offence。
実はね、過去にとっても綺麗なロングストレートヘアの女性を
(後ろから)お見かけしましてね、
で、顔を見たら、
超おばはーん。あわわわわ。
という、ほぼ(自分と重ね合わせて)恐怖体験に近いものがあった訳です。
「顔はがっつりおばはんなのに、髪の毛がやたらサラサラして綺麗」
というのも考えものだと思いましたですよ。悲しいかな。
ロングだったのが致命的だったね。

という諸々の理由でもって
私はこの年でロングにしたいならパーマかける、
そしてパーマかけるならカラーも入れる
(なぜならここが黒髪になるとお化けになるからです)
という条件下で
細木数子様に抗っているのです。

数子(もはや呼び捨て)が言う、
「結婚してんのに、女をアピールしてんじゃねーよ」
ということに関しては

個人が勝手に決めれば良いかと

自分が素敵な気分になることが大事なわけですから、
自分が好きなスタイルで日々を楽しく過ごす。
ま、大人ですから、TPOはわきまえて^^


後は自由さ!あっははーーー!



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